ラブ・ストーリー概論と2023春アニメ

世界中に恋愛を描いた映画や小説は無数にある。恋愛というのは人類が文明を持って以来ずっと人生の重大事件なのだから当然と言えば当然なのだが、物語として恋愛を描く場合、愛し合う二人がいて、その愛の成就を阻む何かの障害が用意され、その障害を乗り越えていこうとするということになる。

その障害のパターンとしては、愛し合う二人が

①違う社会的階層に属している(要するに身分が違う)

②お互いが所属しているコミュニティが対立している

③どちらかが命に関わる病気である

④第三者(昔の恋人やライバルなどはもちろん、戦争など社会情勢を含む)に妨害される

⑤それ以外のSF的、オカルト的な要素による障害がある

のうちどれかに分類できると思う。もちろんこれらが複合している場合もある。さらに物語として二人の関係を

A精神的に承認される(思いが通じて交際することになる)

B制度的に承認される(結婚する)

C社会的に承認される(周りの人々に認められる)

のどこをゴールとするかで物語の内容は大きく違ってくる。またA 、B、Cの順番は作品によって違ってくる。例えば②の代表的な作品である「ロメオとジュリエット」の場合Bは秘密の結婚という形であっさりクリアするが、紆余曲折の末二人が死んではじめてCをクリアしてエンドとなる。現代ならCがBより先になる場合が多いだろうが、周囲に認められない結婚をした場合などはBが先になる。

一般的に「シンデレラストーリー」というと身分違いの恋を指すので①の代名詞的な作品と思われがちだが、「シンデレラ」は実は貴族の娘で、身分的には王子と結婚しても全く問題ない。継母が意図的に妨害しているので内容的には④である。このあたりの昔話やそれをもとにしたディズニーアニメなどでは、王との結婚は自動的に社会的な承認を得ることになるのでBとCの境界は曖昧になる。ディズニーアニメで言えば「白雪姫」「シンデレラ」「眠れる森の美女」はいずれも④、「リトル・マーメイド」「アラジン」は①と④の複合といった具合で圧倒的に④のパターンが多い。

ヒロインが不治の病で死んでしまう③のパターンはオペララ・ボエーム」「椿姫」をはじめ風立ちぬ」「愛と死を見つめて」など一昔前は非常に多かった。最近でもお涙頂戴ネタとしてよく使われる手ではあるが少なくなっているとは思う。このパターンの場合相手が死亡してしまうのでゴール地点はあまり重要ではないと思う。

エリック・シーガルの、その名も「ラブ・ストーリー」という作品は①とBを達成して終わりかと思いきや終盤③の要素が現れ、ヒロインの死後父に認められてCを達成してエンドとなる。こういう複合的なものも最近は多い。

百恵ちゃんの映画で有名な大江賢治絶唱は身分違い①を理由に親の反対にあって駆け落ちをした二人だったが彼女は結核で死亡③、主人公はCを達成するために彼女の亡骸と共に葬婚式を挙げる。「ラブ・ストーリー」と同じ構造だが、「絶唱」では葬婚式の段階ですでに結婚に反対した父親は死んでいる。葬婚式自体悪趣味だが、これには妻を人々に認めてもらう(Cの達成)という意図よりも、死んだ父親に対する復讐の意図が感じられて後味が悪い。

⑤は中国の怪異譚(聊斎志異など)によくみられる。映画化された「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」などが好例。

レムのソラリスをラブストーリーと捉えると⑤のパターンだと思えるが、同時に死んだ彼女の面影がちらつくという意味でも、心理学者である主人公が仕事として相手(と自分の心)を冷静に捉えなければいけないという点で④でもあり、互いが地球側とソラリス側の代表という意味で②とも言える。こういう意味でもこの作品は多面的だと言える。

 

さてなんでそんなことを考えたかと言えば、最近アニメやコミックでラブストーリーばかり見てしまった上に先日「悪しき愛の書」を読んでしまったのでいろいろと考えてみたわけだ。

この春のアニメはラブストーリーがやたらに多い。「君は放課後インソムニア」は③、「僕の心のヤバイやつ」、「久保さんは僕を許さない」、「スキップとローファー」は①というふうに簡単に分類できるが、「山田くんとレベル999の恋をする」という作品は上の分類のどれにも当てはまらない。①に分類した作品はいずれもスクールカーストの上位と下位に属していてというパターンなのだが、どれも障害としてはさほど強くはなく、一番の障害は相手と気持ちが通じることそのものに恐れを抱いている主人公の心の動きそのものだという点で共通している。コミック作品のゴール設定はたいていAであると言っていいのでここでは言及しない。

先日もちらっと言及した「久保さんは僕を許さない」という作品は、存在感ゼロのクラスの男子に一人やたらに絡んでくる美少女というお話で、これはもう完全に「からかい上手の高木さん」のヴァリアントなのだが、「高木さん」が主人公とヒロイン以外の要素をバッサリ削って二人の恋の駆け引きだけに焦点を絞って描いているのに対し、こちらはそれぞれの家族とか友人とかを細かく描写していく。最初の設定から妄想全開なのにそこにリアルっぽい設定を上塗りしても嘘臭くなるだけで、そもそもなぜ、いつ久保さんが白石くんを好きになったのか読者には全く理解できない。(「高木さん」では読者は高木さんがなぜ西片君を好きなのかなどと考える必要がない。だってそこには高木さんと西片君のふたりしかいないからである)しかも登場人物の精神年齢が高校生にしては低すぎて幼稚な作品だと言わざるを得ない。

作品名が出たついでにからかい上手の高木さんについて述べると、これはかなり特殊な例で上のパターンに嵌っていない。二人を結びつけるのを邪魔する障害はなにもなく、物語は二人の心情だけに焦点を当てている。家族や級友がどうしたというのは全く物語に関わってこない。似た例としては堀辰雄の「風立ちぬ」が思い浮かぶ。こちらはヒロインが死の病に侵されているので③の代表的な作品ではあるのだが、この作品も二人の心情の変化以外のこと(家族や仕事など)はすべて物語の描写のフレーム外に追いやられている。「風立ちぬ」は「ヒロインが死の病である」という前提が、作品が二人の心情のみに焦点を当てる動機になっている。「高木さん」にはそういうものがない。ただ淡々と、他者の介入もなく中学生の恋の駆け引きを描いているという点できわめて異色の作品であると言える。

「僕の心のヤバイやつ」は重症の中二病の中学生市川が、同級生でタレント活動をしている美少女山田と、いつのまにか仲良くなってしまう話。「スキップとローファー」は田舎から出てきて東京の進学校に入学したヒロインみつみと、仲良くなったイケメン男子ほか同級生たちの話。どちらの作品も恋愛対象と主人公にルックス的ギャップがあるという設定で、かなり妄想が入った作品と言えるが、前者は個々のエピソードはリアルな話が多く、後者はヒロイン以外のエピソードがよく描かれていて共感できる部分もある。

「君は放課後インソムニア不眠症という共通項で出会ったガンタとイサキ。イサキは生まれつき心臓に疾患を持っていて…という話なのだが、天文部を作って夜間活動を始める部活ものの要素もある。きめ細かいリアルな描写で妄想臭い部分もなく、上に挙げた三作とは格が違う。最近の③のパターンの作品と言えば「君の膵臓をたべたい」とか「君は月夜に光輝く」みたいななんかわけのわからない病気が出てくることが多いがこれはしっかり病名も実在のもの。今のところヒロインの病気が表に出てきてはいないのだが、読者(とガンタ)を通奏低音的に不安にさせるのはうまい。

問題は「山田くんとレベル999の恋をする」という作品で、これは恋人に振られた女子大生の茜が、元カレが好きだったネットゲームのイベントに、元カレを見返そうとおしゃれして出かけたら超絶イケメンだがコミュ障の山田と出会う…という話なのだが、この二人の間にはおよそ障害と呼べるものが何ひとつない。上記の「高木さん」同様パターンに嵌っていないのだが、こちらは周囲の人物も物語にちゃんと絡んでくるので、意図的に周囲を省いている「高木さん」ともわけが違う。ヒロイン茜の友人が「じゃあアンタどうしたいの?」と焦れるシーンがあるが、見てる側の感想もまさしくそんな感じ。それで面白くないのかというと面白いのだ。今の若い人の恋愛って実際こんな感じなのかもしれない。

やはり最近のコミック作品では、ラブストーリーとして定番のパターンを踏襲してもしなくても、恋愛という緊張関係の中での心の動きを描くほうに重点を置いた作品が多いということだろうか。それにしても欧米の作品に④が多く日本の作品に①が多いのは面白い現象だと思う。