川端康成 みずうみ

先日病院で果てしなく待たされた間に読んだ。 戦後間もない時代。34歳の桃井銀平は復員後高校教師の職を得たが、教え子の久子と関係を持ってしまい馘になってしまった過去がある。そんな銀平の心象風景をプルーストばりの「意識の流れ」に沿って描いた作品。

この小説を簡単に説明すればこんな感じなのだが、それにしてもこの銀平という男、美しい女性を見かけると尾けて行ってしまわずにはおれないという異常な性癖の持ち主。相当ヤバい。今なら間違いなく変質者扱いだ。 そこに登場人物たちの不思議な縁が重なって多層的な作品である。

銀平はある日ある女性を尾行する。尾けられていることを怪しんだ女性・宮子は持っていたハンドバックを投げつけて逃げるが、そのバッグには20万円(現在の貨幣価値ならその10倍以上だろう)という大金が入っていた。しかし有力者の老人の愛人として暮らす宮子にはその金は、大金とは言え執着を覚えられないものだった。やがて銀平はある少女に出会い、彼女を垣間見ることを願うのだが、その少女町枝は宮子の弟の友人水野の恋人で...と人間関係が絡み合っていく(ただ銀平と宮子は最初のバッグを投げつけられた時以外は全く接点がない)。その中で銀平は教師時代に愛した久子と、子供の頃に憧れた年上の従姉やよいとの事を回想する。

まあとにかく私がいつも言ってるように川端の『人間嫌いで女好き』という特性がもろに出て、退廃的な面が押し出された怪作。 それを美しく印象的な文章で描いてしまう。銀平に嫌悪感を抱きながらも読み進めずにはいられないから始末が悪い(笑)

ただ冒頭の軽井沢でのトルコ嬢とのエピソードは全くその後の展開と関係がなく、構成としてどうなのかとは思った。

川端康成 掌の小説

川端康成賞受賞作家の堀江敏幸を読んだので、ちょっと読み返してみようと思い立って読み出した川端康成「掌の小説」。

ちょっとのつもりが読み終わるのに1ヶ月近くかかってしまった。

その名の通り短いものは2頁にも達さないようなものから、長くても7、8頁程度というの掌編小説を122作収めた一冊で、総頁数は550頁に及ぶ分厚い本。一作一作は短いんだけど、そのどれもが深い内容なのでいちいち考えさせられてなかなか読み進められなかった。

小説というより普段の暮らしのワンシーンを綴ったエッセイのようなものから、川端らしい一見人情ものに見えて実は冷やっこい物まで多彩な作品を収めていて、短いが故に何の決着もなく「えっそれで終わり?」みたいな終わり方をする作品も多くて、これはどう言う意図で書かれたんだろうと考え込むこともしばしば。

これ122作全部について語りたいくらい好きだ。私が日本文学の研究者だったらこの作品の研究に生涯を捧げたかも。

で、ここからは以前のブログからの引用。18年前に書いたものだが、今回の感想もほとんど変わらない。

 なにしろ122編もあるので印象に残った作品を挙げるだけでも大変である。たった2ページの、書簡の形で書かれた「金糸雀(カナリヤ)」、死んだ妻のこわばった死に顔を、思わず和らげてやろうとする「死顔の出来事」、売られていく娘に、恋人との一夜を許す母を描いた「有難う」、愛と死の奇妙なすれ違い「霊柩車」、少女と姉の愛人の盲人「盲目と少女」、少年と少女の幼い愛を描く「雨傘」、死んだ姉と恩師の思い出を語って冷たいイメージがほとばしる「足袋」、たった4ページの作品なのに、あたかも長編の冒頭のような強烈な情景描写を持つ「秋の雨」…こうやって一つ一つ挙げていくときりがない。

 読んでいくと、いくつかのパターンの作品があることに気づく。まず作者の思い出話のような私小説風の作品群がある。 これには少年時代の初恋の思い出をもとにしたものと、作家である「私」の目で見たものがある。「伊豆の踊り子」を思わせる、田舎の温泉宿などを舞台にした作品群、そしてこの作家独特の視点で女性を描写した作品群がある。夢とか死後の世界をテーマにした幻想的な作品もあり、連れ立って歩く老人と若い女を描いた異色の作品「不死」にはそこに描かれた死の幻想が怪しい美しさを放って魅力的である。

 川端のすべてがこの一冊に凝集している、と言われることがある。たしかにそうだ。この作家の魅力が詰まった素晴らしいショウケース的な一冊である事は間違いないと思う。だが、この作家をはじめて読む人には、少なくとも私は勧めない。名作と言われる「伊豆の踊り子」とか「雪国」あたりの名作を先に読んでから読むほうがいい。その方がこれらの作品への理解が深まるに違いないからである。また、1作が短い掌編小説だからと思って軽く見ると痛い目にあう。上にも書いたようにそれぞれの作品がかなりの重量感を持っていて、決して軽い読み物ではないからだ。

堀江敏幸 雪沼とその周辺

この作家については現代日本文学にあまり興味ないもんで、名前すら全く知らなかったんだけど、池澤夏樹日本文学全集に収録されてた「土左日記」の翻訳が見事だったのでどんな作品を書く人なのかちょっと調べたら川端康成賞を取った人らしい。 川端は私が日本人作家では珍しく好きな作家なので、じゃあちょっと読んでみようかと。

で、これはかなり好き。「土左日記」がかなりメタフィクショナルで前衛的な解釈だったのでそんな感じの作家なのかとも思ったのだが全くそんなことはなく、正統的な作品が並ぶ短編集だ。昭和時代の残り香の残る地方の町雪沼を舞台にそれぞれ市井の人々を主人公にした短編集。今夜で営業を終わるボウリング場や、女主人を亡くした料理教室兼レストランといった、これが書かれた20年くらい前でもすでに時代に取り残されつつあった場所を舞台に静かな物語が紡がれ、それが結構あっさり(読者によっては尻切れトンボ的に感じるかも)終わる。その分強力な余韻が残る。一冊通して読んでみるとどれもそれぞれ登場人物も物語の舞台も違っていながら、同じ空気感を持っている。ラストの「緩斜面」の香月さんを除き、どの作品も主人公は自営業を営み、職人、もしくはそれに準ずる仕事をしている場合が多い。そしてどの作品も主人公を「さん」づけで呼ぶ。そういうこともあって、作品全体に丁寧でゆっくりした空気が流れている。

作品同士も非常にゆるい繋がりがあり、もっとこの町の話を読みたいなあと思わせる。 この作家、他の作品も読んでみようかな。 川端と似ているかと言えば別にそういうわけではないと思うのだが、でもなんとなく川端の「掌の小説」読みたくなったな。

さて、全くどうでもいい話だが、私が川端を好きなのは川端の作品を読むとどうしても親近感を覚えずにいられないのだ。それは川端の作品(特に「雪国」あたり)を読むと、「ああ川端って人は、人間嫌いで女好きなんだな」と思うのだ。それが私と同じなので。

ちなみに堀江の作品にはそれは感じない(笑)。

イェジー・コシンスキ ペインテッド・バード

1939年の東欧のある国。6歳の少年だった「ぼく」はナチスの危機から息子を救おうとした両親に単身で疎開させられたが、社会の混乱のため両親との連絡が絶え、里親が死亡したため放浪することになる。「ぼく」は白人のキリスト教徒が父だったがユダヤ人の母親と同じ黒い目と黒い髪だったので、ドイツ兵に見つかると収容所送りになる。村人もユダヤ人を匿っていたことがバレるとひどい目に遭うので「ぼく」には辛く当たった。様々な村、さまざまな人々に助けられたり虐待されたりしながら「ぼく」が生き抜いた戦時中の4年間を描いた作品。

いや〜とんでもない作品だった。目を覆うような凄惨なシーンがこれでもかというほど続く。 作品を通じて善人は上官の命令を無視して逃してくれたドイツ兵と、村を襲撃して破壊と略奪を繰り広げる凶悪なカルムイク人部隊を撃退して「ぼく」に差別のない共産主義への希望を教えてくれたソ連兵たちだけだ。戦争というのはこういうことなのだ。まだ良心のかけらが残っているかもしれない敵兵より怖いのは自分の身を守るためならなんでもする見も知らぬ隣人なのだ。

これはポーランド人の作者が亡命後に英語で書いた作品で、ポーランドでは長らく発禁だったそうだ。そりゃそうだ。「ぼく」に対する虐待や暴力の1番の加害者は同国人だとして描かれているわけだから。しかしこれはフィクションで、作者自身はこんな悲惨な体験をしたわけではないらしい。でもこの作品を読んだ作者の旧友は「あの頃のポーランドはこんな牧歌的なもんじゃなかったよ」と笑ったそうだ。 恐ろしい。

「伊勢物語」「堤中納言物語」「更級日記」

日本文学全集平安編の残りも読んでしまったので。

「伊勢物語」は当時名うての色男で鳴らした(?)在原業平の逸話を集めた(彼とは無関係のお話もあるらしい)と言われる、和歌を中心にした短いお話を集めたもの。 和歌が中心のお話で、色男が主人公だから当然色っぽいお話が多い。平安時代って今に比べたらセックスという点ではずいぶん開放的だったようだ。それ以外の話ももちろんあるんだけど。和歌がメインのお話なのでちょっととっつきにくい面はあるかな。

「堤中納言物語」は短編集で、当時の割と普通の(とは言ってももちろん貴族階級の)お話を集めたもの。姫を攫ってきたつもりで間違って婆さんを攫ってきたとか、不倫相手と一緒になろうと妻に別れを切り出したが可哀想になり不倫相手を断ろうとしたら不倫相手が頬紅と眉墨を取り違えてしまうとか滑稽な話が並ぶ。姉妹にそれぞれ懸想する二人の少将が相手を取り違えて一夜を過ごしてしまうというちょっと前ならスワッピング(今風に言えばダブルNTRとでもいうのか)みたいなとんでもない話も。有名な「虫愛ずる姫君」など結構ラストが投げっぱなしのものが多くてそういう意味でも現代的。やっぱ性的なモラルが現代よりも恐ろしく低くて興味深い。中島京子氏による翻訳は和歌の翻訳も5-7-5-7-7の形にしてあるのには驚愕。この翻訳はもはやウルトラC級であると言っていい。

「更級日記」は中級官吏を父に持つ女性の一生を描いたもので、おそらく50年ほどのタイムスパンを圧縮した作品で、おそらく少女時代から老境まで書き続けた日記をダイジェストにしたものなのだろう。源氏物語の世界に憧れた少女時代から宮仕い、結婚、そして夫の出世がままならず悩んだり仏閣詣でに明け暮れるといった感じで、これはすごい。1000年前の女性の人生が見事に浮かび上がる。しかもなかなかの晩婚であることも興味深い。女性の書いた作品というだけなら「枕草子」「源氏物語」など平安文学には多数見られるが、一般女性の生活を女性の側から描いた作品でこれほど古いものは(平安文学には他にも例があるがそれ以外では)世界でも珍しいのではないだろうか。

これらの作品を読むと、1000年たっても人の考えることってたいして変わらんなあと思う。平安時代の人々にとって和歌を詠むという事は、現代の我々がスマホで撮った映える写真に気の利いたキャプションをつけてSNSにアップするようなものだったのだろうと思う。

というわけで大変面白かった。平安文学、他のも読んでみたい。でも「源氏」はハードル(値段も)高いなあ。

堀江敏幸訳 土左日記

先日森見訳「竹取物語」読んで面白かったので他のも読んでみようかなと思って手を出した河出の池澤夏樹編日本文学全集の平安文学編。まだ読んでる最中で、全部読んでから書こうかなと思ってたんだけど、「土左日記」があまりにも面白かったので。

これは古典の授業で習った方も多いと思うけど紀貫之という人が1100年くらい前に書いた日記形式の作品で、自分が四国の任地から京都に戻るまでの旅を題材に、自分を女に見たてて描いたという作品だ。なぜ女が書いた形にしたかというと、当時の文章を書くとき男性は漢文で書くのが当たり前で、仮名で書くのは女性と決まっていた。ところが漢文では細かいニュアンスが表現できない。娘を亡くして京に戻る傷心の著者は、心の機微を表現するには仮名で書く方が良い、またそういう感情を吐露するのに男性が書いた形はふさわしくないという判断なのだろう。

そこにこの翻訳者堀江敏幸は独自の解釈で作品を拡張、冒頭に「緒言」末尾に「結言」をオリジナルで追加、本文中にも括弧入りで著者の心情を補足していく。結果原著とはかなり異質な肌触りに。強烈にメタフィクションとしての印象が立ち上がってくる。 当時は「男性が女性に扮して物語を綴る」という点だけでも新しかったのだろうが、それは日本語の成り立ちにも関わっているし、同時にこの作品のどこまでが真実でどこからが虚構なのかがわからなくなる効果も生んでいてとても興味深い作品だ。ちなみに紀貫之が実際に子供を亡くしたのかは定かではないらしく、作中旅の道連れの家族が登場しその娘が歌を詠んだりするが、本当に旅の道連れの家族などいたのかもよくわからないのだそうだ。そういうわからなさの中にも、1000年以上前の人々が今の私たちと同じようにものを感じ、考えていたということ自体が印象深い。

翻訳の堀江敏幸については全く知らなかったが、結構いい作品を書いてる作家のようだ。ちょっと読んでみようかな。

でもこれはもはや「現代語訳」を通り越して、「土左日記を主題にした現代文学」かもしれないな。

ユーロビジョン歌合戦 〜ファイア・サーガ物語〜

Netflixで配信中の映画。

アイスランドの漁村に住むラースは小さなころからユーロヴィジョンで優勝することを夢見て、幼馴染のシグリットと二人で「ファイア・サーガ」というデュエットグループを組んで地元のパブで歌っていたが、村人たちからはバカにされ、父親からも恥さらしと罵られている。しかしある日、幸運にもユーロヴィジョンの予選に出場する権利を得る。喜び勇んで予選の行われる首都レイキャビクに出かけた二人だったが…

という感じのこの映画なのだが、前提となるユーロヴィジョンというイベントについてまず紹介しておこう。ユーロヴィジョンとは日本ではほとんど知名度がないが、ヨーロッパ各国が代表歌手を選出し、その各国の代表歌手が順位を競うという音楽祭でいわば音楽界のヨーロッパ選手権のようなもの。本選では生中継で参加歌手がパフォーマンスを行って、一般の視聴者も投票に参加するというもので大変盛り上がるらしい。毎年行われていて、今年は5月に前回優勝国のオーストリアで行われる。参加国では国を越えて同時に生中継されるという欧州最大の音楽イベントである。

この映画はそのユーロヴィジョンを題材にした映画なのだが、実は各国の代表の決め方はそれぞれの国の自由で、この映画でのアイスランドのようにミュージシャンを集めて予選を行う国もあれば委員会のような人たちが「推薦」として勝手に決めてしまう場合もある。フランスなどは予選をした年としなかった年があったり結構適当。 この映画の舞台であるアイスランドは毎回予選「Söngvakeppnin」というのを開催している(今年はイスラエルの参加に抗議して不参加のため開催なし)。人口40万人弱の国で毎年10組ものミュージシャンが参加してるって考えたらすごい。

で、この映画、主人公たちはその予選で大失敗してしまうものの事故で他の予選参加ミュージシャンが全員死亡してしまい代表に選ばれてしまう。そして本選の行われるエジンバラに向かうのだが… というお話になるわけで、当然架空のミュージシャンによる架空のユーロヴィジョンが展開するのだが、いかにももっともらしい音楽の数々と、はちゃめちゃな展開で笑える映画だ。何も考えずに見よう。ついでにユーロヴィジョンそのものにも興味持ってもらうと嬉しいな。

でも、この映画のユーロヴィジョン、ロシア代表がいるぞ?と思ったらこの映画2020年の映画だった。シグリットに「あなたゲイなの?」と訊かれたロシア代表のアレクサンドルが頑なに「ロシアに同性愛者はいない」と言い張るシーンがあるがそういうギャグが日本人には通じにくいよなあとは思うけど(笑)。