ユヴァル・ノア・ハラリ 21Lessons

ベストセラーとなった「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の著者で、イスラエル歴史学者・哲学者の著者が、現代人と現代社会の直面する問題について、どのように思考し行動すべきかを語った著作。原著は2018年出版。本文だけで500ページの大著だが大変興味深く読んだ。

彼が取り上げるのはまずテクノロジーの問題。現代は加速的なテクノロジーの発達で数十年前には予想もできなかった変化に見舞われている。AIの発達で仕事がなくなり、人間は存在価値を奪われるというのだ。ビッグデータと繋がったネットサービスが人々の嗜好すらコントロールしていくかもしれないという未来像はなかなかのディストピアだが、もうすでにそんな時代はそこまで来ているかもしれない。

これを皮切りに政治、宗教、戦争やテロなど様々な問題について彼一流の解釈で語っていくのだが、例えば昔の人々は支配する者が変わっても、農民なら畑を耕し作物を育て収穫して、職人なら仕事を覚えて、という生活には変化はなかった。なので子供達にはその生活についての方法を伝授すればよかったのだが、現代では今日子供たちに教えたことが明日は時代遅れになってしまう。教育というものの根幹が揺らいでいるのだ。とか、グローバルな時代には宗教は意味をなさなくなってくるとか、ちょっと驚いてしまうような、でもちょっと考えると納得いくような、そんな発想を大量に含んで大変示唆に富む一冊だ。

ところで昨日(2022年2月24日)ロシアがウクライナに侵攻した。これはとんでもない暴挙で、下手をすると第三次世界大戦に繋がりかねない重要事件だと思う。米国やEUの出方次第では中国の台湾進攻にも繋がりかねないとも思う。この事案について第11章「戦争」で「プーチンは21世紀には軍事力があまり役に立たないことや、戦争を仕掛けて勝つには限定戦争を行うにとどめておなかなくてはならないことを知っているように見える」と述べている。さらに重要なこととして、「プーチンのロシアは普遍的なイデオロギーを欠いている」として「ウクライナへの侵攻は(中略)例外的な出来事であることを願っても、そこそこ妥当だろう」と楽観視している。要するに全面戦争にはつながらないだろうと言うわけだが、そうあることを願わざるを得ない状況になってしまった。どうかウクライナがこれ以上ひどいことになりませんように…

ウエスト・サイド・ストーリー

あの名作映画「ウエストサイド物語」をスピルバーグがリメイクした作品。

旧作は私が大好きな映画で、「冒険者たち」などと並んでこれまで見た映画の中で最も好きな映画のひとつである。当然そうなるとリメイク作に対する評価は辛くなるわけだが、しかしこれは良かった。バーンスタインの音楽とキレのあるダンスにシャープな映像がマッチして素晴らしい。旧作が好きな人もぜひ見てほしい。ここでは旧作との異動など書いていこうかと思う(ここでは1961年の映画を「旧作」、ブロードウェイのオリジナルスコアを「オリジナル」と表記する)。

異動ポイントはいくつかあるのだが、まず冒頭で主人公たちの住む区画が、都市計画で数年のうちに取り壊される予定で、すでに取り壊しが始まっているという設定になっていることが説明されて始まる。トニーはドクの店で働いているがドクはすでに亡くなっていて店は夫人のヴァレンティナが経営している。トニーは以前けんかで相手を「危うく殺しそう」になって一年間服役した過去があり、ヴァレンティナの庇護下で更生を目指している。ヴァレンティナはプエルトリコ系で、シャークスからもジェッツからも一目置かれる存在である。ベルナルドはボクサーという設定。これはジェッツとの決闘で「素手」を選択する事と矛盾する設定だと思う。キーパーソンながら旧作では影の薄かったチノはシャークスのメンバーではなく、プエルトリコ系でありながら夜学に通うインテリ。マリアの結婚相手としてベルナルドから期待され、シャークスには加わらせてもらえない。

ダンスでマリアとトニーが出会って恋に落ちるのは従来通り。旧作ではトニーがマリアの働く縫製店を訪れるが、今回は出会った翌日昼間に二人で電車に乗って出かける。このため旧作にはあったマリアとトニーが会っているところをアニタが目撃するシーンがない。

音楽は多少のアレンジが施されているがほぼオリジナル通り。曲の登場順が旧作映画ともオリジナルとも違うように思うが、演奏されなかった曲はなかったと思う。「Maria」は20世紀に作曲された歌の中で最も美しいものの一つだと思っているのだが、ここでは残念ながら旧作やオリジナルスコアでバーンスタインが指揮したCDでホセ・カレラスが歌ったものには及ばなかった。「Gee,Officer Krupke」はかなり大幅にアレンジされていた。「America」は旧作と同じ男性も歌うバージョン。ちなみにオリジナルは女性だけで歌う。「Somewhere」はオリジナルではラジオから聴こえてくるのだが、ここではリタ・モレノが歌う。「A Boy Like That~I Have A Love」の流れは緊張感も説得力も旧作よりも上のように思った。

終盤マリアに頼まれてトニーに伝言を届けに来たアニタがジェッツに暴行を受けそうになるシーンがあるが、ここではジェッツの女の子たちがアニタを庇おうとするのが印象的。ラストも旧作とほぼ同じなのだが、マリアが銃を手に「何人殺せるの?」という悲痛なシーンで、回りにチノとジェッツとシャークス各数名しかいないのが残念。ここは差別を助長していたとも思える警官たちもいるべきだと思う。人数が少ないのでトニーの亡骸を抱えようとして2つのチームが助け合うシーンが目立たなかった。

まあそういうのは細かいことで、オリジナルに現代的な要素を加えた切れのいいダンス、美しく精細な映像からマリア役のレイチェル・セグラーのキュートさまで、すべて素晴らしい作品に仕上がっていて、大好きな映画のリメイクながら高得点をあげたい。

今観ても全く古くない。そして旧作も含めて、いまだに現代人が観なくてはいけない作品だと思う。しかしそれは、この作品が抱えている問題が、60年という年月が過ぎても人類にとって変わらず問題であり続けているからでもあるのだ。

マンダロリアン

disney+で配信されている「スター・ウォーズ」の外伝的なドラマシリーズ。エピソードⅥで帝国が崩壊して数年後、本編に登場したボバ・フェットと同族の、マンダロリアンの賞金稼ぎの男がひょんなことからあのヨーダの同族の子供「ザ・チャイルド」を連れて銀河中を旅することになるという、SW版「子連れ狼」だ。

現在第2シーズンまでの16話が配信されていて、最近ボバ・フェットが主人公の「ボバ・フェット(The Book of Boba Fett)」が配信されたのをきっかけに、私は以前一度観ていたのだが未見だった妻と一緒に再度通しで観た。

大変面白い。主役のマンダロリアンとザ・チャイルドのキャラクターもいいし、個性の強いサブキャラもそろっていて見ていて飽きない。エピソードは一話完結で様々な星を訪れるのだが、その星々の風物の描写も見事。ザ・チャイルド(第2シーズン終盤でグローグーという名前であることが判明)がとてもかわいい。

第1シーズンはザ・チャイルドのフォースの強さに目を付けて実験材料にしようとする旧帝国軍に追われることになるが、仲間たちの協力を得てモフ・ギデオン率いる旧帝国軍の一派を退ける。第2シーズンではザ・チャイルドがジェダイの卵だと知ってジェダイの元に戻そうとする話になる。第2シーズンではファンならおなじみのキャラクターが次々登場するのも楽しい。第3シーズンの公開はまだ先になりそうだが、マンダロリアンの友人のキャラ・デューンという重要なキャラを演じたジーン・カラーノが差別的な言動で降板を余儀なくされたそうで、どうなるのだろうか。彼女がいないシナリオを考えないといけない製作者も大変だろう。

ちなみに今順次配信されている「ボバ・フェット」はこれの外伝的な要素が強い。こちらを観ておかないとわからないことがたくさんあるのであちらを観る前にぜひ。

それにしてもdisney+では今後もSWのオリジナルドラマがたくさん企画されている。ジェダイの生き残りのアソーカ・タノが主人公のものや、「ローグワン」の前日譚、ランド・カルリジアンが主人公のものなどが企画されているようだが、一番の目玉はユアン・マクレガー主演の「オビ・ワン」だろう。うーん早く観たい。

ダシール・ハメット  チューリップ

ハードボイルドの創始者ハメットの未完の中編小説「チューリップ」をメインに短編を集めた作品集。古本屋で安かったので購入して読んでみた。
 
表題作は花のチューリップとは全く関係ない話で、著者自身の身辺雑記のような小説である。表題のチューリップとは、ハメット自身と思しき主人公の作家と会話を交わす友人の名前である。友人とはいえこれもハメットの分身のようなもので、この二人が禅問答のような会話を繰り広げるだけの全く面白くもなんともない、小説として読む価値が全く感じられない駄文である。 ハメットの私生活に興味があるような、熱心なハメット研究者にはたまらん作品なのだろうが、一般読者にとっては全くつまらない、もはや小説としての体すらなしてすらいない作品だ。あまりにもつまらなくて、100ページくらいの短い作品だが読んでて非常に長く感じた。
 
それとは正反対に、後半に収められた短編10作はどの作品もめちゃくちゃ面白い。数ページのかなり短い作品から結構長い作品まで様々な作品が収められていて、どれも初めて読む作品だったが、「赤い収穫」などでおなじみの「コンチネンタル・オプ」が活躍するやや長めの「裏切りの迷路」はある医師が死亡し、婦人が殺害の疑いをかけられる。オプは夫人の疑いを晴らすべく動き出し、医師の元妻とつながりのある男が事件のカギを握っていることを突き止めるが…という作品。短編なのに二重に張られた謎が見事に集約する傑作。
「焦げた顔」はある富豪の娘姉妹が失踪、これを探すうちに意外な事実に突き当たる。一緒に行動する刑事のエピソードが、それだけで小説になりそう。その他の作品もみな面白い。オプものではないが、ラストに置かれた掌編「闇にまぎれて」も小説ならではのギミックでラストに驚かされる。
 
というわけで、やっぱりハメットは犯罪物でないと、と再確認した一冊だった。

福永武彦 死の島

 今日1月23日は私の最愛の小説、福永武彦「死の島」の日。これを記念して、以前旧ブログに上げたロングレヴューを再掲させていただきます。。

 昭和29年1月23日。都内の小さな出版社に勤める小説家志望の青年相馬鼎(そうまかなえ)は、懇意にしている画家、萌木素子と彼女の同居人の相見綾子が旅行先の広島で服毒自殺を図った事を知らされ、急行列車に飛び乗る。
 原爆の被災者である素子は、そのときの強烈な体験から、今で言うPTSDに苛まれている。装丁の仕事を依頼しようと素子を訪ねた相馬は、そこで素子と、彼女と同居している普通のお嬢さんらしい綾子と知り合い、友人になる。素子と綾子の両方に惹かれだした相馬はこの二人をモデルにした小説(主人公の名前はM子とA子)を書き始める。

 上下巻で900ページもの分量を持つこの大作は、この日の相馬鼎の行動をトレースして行く部分と、彼の回想、彼の書きかけの小説、素子の意識を描き出す「内部」、そして「或る男」のこの日の行動という、別々の5つの部分を平行して、あるいは順不同に描いて行くという前衛的な手法で書かれている。時間や空間、それに視点も違ういくつもの部分がランダムに置かれていてきわめて多層的な内容を持っている作品である。まずは5つの部分について見ていこう。

⑴相馬鼎の、昭和29年1月23日朝からまる一日の行動を描いた部分。「朝」「昼」というふうな副題がついている。
⑵相馬鼎の、昭和29年1月23日へ至る300日間の素子、綾子との交流を描いた部分。「300日前(春)」といった副題がついている。
⑶萌木素子の、昭和29年1月23日未明に服毒自殺を図るまでの数日間の心情を描いた部分。「内部」という副題がついている。この部分では素子のその時の心情とは別に、素子の広島での被爆時の体験がカタカナ書きされた文章で挿入されている。
⑷「或る男」の、昭和29年1月23日の行動を描く部分。「或る男の午前」といった副題がついている。
⑸相馬鼎が、素子、綾子との交流から創作した、ふたりの過去を推定したような内容を持つ小説。「カロンの艀」「トゥオネラの白鳥」「恋人たちの冬」の三つの部分がある。

 この小説を語る時に、よく「時間が飛び飛びになってる」と指摘されるが、実は完全に時間が飛び飛びになっているのは⑵の部分と⑶の中のカタカナ書きされた被爆体験の部分だけである。⑵の部分は完全に章として独立しているし、⑶も被爆体験の部分はカタカナ書きなので容易に区別でき、例えばプルーストのようにシームレスに回想が入り込む作品よりはるかに読みやすいとは言えるだろう。
 ⑵の部分は⑴の部分での相馬の意識と大体連動していて、その時の相馬の心情から連想される回想の体をとっているので読んでいて違和感も少ない。

 ⑸の部分は萌木素子をモデルにした「M子」の過去を描く「トゥオネラの白鳥」、相見綾子をモデルにした「A子」の過去を描いた「恋人たちの冬」、そしてふたりの共同生活を描いた「カロンの艀」の三つの部分が、これまた順不同に置かれているが、この部分はあくまで相馬鼎の創作にすぎず、M子の参加する同人「土星人」や、A子が「K」という男性と出会う経緯などは全く素子や綾子の「現実」の過去とは関係がない。よく読むと特に「M子」はかなり饒舌で、⑵や⑶の部分に登場する素子とは随分キャラクターが違うことがわかる。また、「恋人たちの冬」に出てくるA子は、「現実」の綾子に比べるとずっと類型的に思えるがどうだろう。
 問題なのはその綾子のほうで、この作品には綾子視点の部分が全くなく、彼女の心情が読者に直接届くことはない。

 ⑷の部分の語り手「或る男」は「二日前」の章で相馬鼎が素子の勤めるバー「レダ」で出会った男で、綾子と一緒に昔駆け落ちした元恋人である。取っ替え引っ替え女性を替えてヒモ生活をしている自堕落なこの男の独白で、綾子の過去がうっすらと描かれるが、それもはっきりと綾子の心情に迫るわけではない。
 ⑸の部分は極論すれば作者が読者を混乱させるために用意したフェイクであるとさえ言える。ここで描かれるM子とA子は相馬の目を通して単純化・戯画化された素子と綾子にすぎない。この部分で我々が理解できるのは、相馬がどれだけ素子と綾子のことが理解できていなかったか、というその一点だけである。漫然と読むと読者も相馬同様素子とM子、綾子とA子を同一視して混乱するので気をつけなくてはならない。

 重要なのは、この作品の主要な登場人物4人のなかで、綾子だけが読者に直接心情を語ることがないという事だ。そのため綾子の行動にはよくわからない事が多い。なぜ彼女が素子とともに服毒自殺を図るまでに至るのかはっきりとは説明されない。読者によっては綾子が自殺を図るまで思いつめる理由が貧弱と感じる場合もあるだろう。だが綾子の心情が、ラスト近くの『内部L』まで語られない以上、少なくともそれまでは彼女が自殺を選ぶ理由が本当に貧弱なのかどうかすら読者には判断のしようがないのである。
 相馬が自分の印象から創作した「恋人たちの冬」のA子が語る心情を、語られない綾子の心情に重ねるとこの作品全体を大きく見誤ってしまうのではないかと思う。

 この作品では作中で過去の芸術作品について語られることが多い。主人公たちの芸術談義のネタとして様々な作品が登場してくるのだ。シベリウスの音楽、ベックリンムンクの絵画、玉堂の南画、岡倉天心の「茶の本」など多岐にわたる。

 ドイツの画家ベックリンについては相馬が素子を知ることになった「島」という作品がベックリンのそのものずばり「死の島」という作品に似ているということから語られる。記事冒頭に掲げた絵画がベックリンの「死の島」である。ただしベックリンはこのタイトル・モチーフで少なくとも5枚の作品を描いているのだそうだ。ただし、作中で素子はベックリンの画集を見て「この画家は死が自分の外にあったと思っていた」と断言し、そういう楽天主義は自分の作品とは程遠いといった趣旨の発言をしている。素子の「島」はもちろん実在する作品ではないが、もっと暗く、救いのないイメージの作品であると考えていいだろう。
 相馬は素子の作品に近いイメージの画家としてムンクを挙げている。そういえば私が初めてこの作品に触れたのは新潮文庫版だったが、そのカヴァーにムンクの絵画が使われていた。
 中でも大きくページを割かれて作品について語られるのがフィンランドの作曲家シベリウスだ。主人公である相馬が愛してやまない作曲家であるという設定で、素子や綾子を相手に蘊蓄を垂れるというシーンがある。正直この作品の時代設定である昭和29年には一般に人気があった作曲家だったとは考えにくいのだが、相馬のシベリウスへの偏愛ぶりはなかなかのもので、彼自身、自作小説の素子を主人公にした部分に「トゥオネラの白鳥」という表題をつけているが、これはもちろんシベリウスの代表作のひとつである交響詩の曲名でもある。この曲のイメージに素子の印象を投影したということだろうか。ちなみに綾子も『「トゥオネラの白鳥」を聞くと素子さんを思い出す』というような発言をしている。
 「トゥオネラの白鳥」は「レミンカイネン組曲」もしくは「四つの伝説曲」と呼ばれる連作交響詩の第2曲で、幽玄な趣の静かな曲で、シベリウスの作品の中では早くから親しまれた作品であるが、作中で相馬も語っているが第4曲「レミンカイネンの帰郷」という曲がこの作品を読む上での鍵の一つになっている。
 演奏時間7分ほどのこの作品は、聴いてみると結構騒々しくて、お世辞にも傑作とは言えないが、相馬が語るようにまずばらばらな動機がいくつか提示され、曲が進むといつの間にかそれが統一されていく。この曲の構造を小説に取り入れようと構想したのが相馬の小説なのだが、もちろんこの「死の島」という作品全体がこの構造をさらに深化した構成を持っているのだ。
 私は「死の島」という作品が、「多層的な内容を持っている」と述べたが、それは5つの異なる部分が順不同に登場する複雑な構成のことだけを指しているわけではない。相馬が上に述べたような芸術論を語ったり、劇作家加藤道夫の死(昭和28年12月22日)から芸術家の自殺について語る部分があるという点でディレッタント小説(そんなジャンルがあるかどうかは知らないが)でもあり、相馬が飛び乗る急行「きりしま」を描いて鉄道小説でもある。もちろん被爆の惨状と後遺症を伝える原爆小説でもあるわけで、そういう多義的な内容を駆使して作者が描いたのは、やはりこの作家の永遠のテーマである「愛の不可能性」について、なのだ。
 さて「死の島」は既に名作として高い評価を受けている作品で、普通であれば私などがいまさら色々述べることなどないと思うのだが、ネットでの評価などを見ていると私が思いつきもしないような感想を述べている方もいらっしゃる。この作品そのものがかなり謎を孕んだまま終わっているためでもあろう。その辺も踏まえて総合的な私の解釈を述べてこの稿を終えたいと思う。
 まず、ネットを巡回していて気になったのはあるブログの記事だ。このブログほどこの「死の島」という作品を酷評した文章は他で見たことがない。
 このブログ主の方は一言で言えばこの作品を、構成はすごいけど書かれている内容は稚拙、と断じている。
 確かに私も「レダ」で相馬にも骸骨が見えてしまうシーンはちょっとやりすぎだと思うし、相馬という主人公が比較的軽い男で、素子と綾子の二人とも愛してしまう優柔不断な主人公であることで作品に対して否定的な気持ちが起こる気持ちはわからないでもないのだが、この「小説の致命的欠陥は、原爆で地獄を体験した素子はともかく、家出して結婚した男との新生活が失敗した程度の綾子が自殺する理由が見い出せない」事、というのはどうだろう。
 
 綾子がなぜ死のうとまでしたのか、それが理解できなくてはこの作品を読んだことにはならない。綾子は自分の「或る男」への愛が消えた時のことを「今までは深い豊かな海だったのよ、それが見る見るうちに汐が引くとあとには岩だらけの砂浜が残って、気味の悪い鳥の死骸とか、ぬるぬるした海藻とか、砕けた貝殻とかしか残っていないの。なぜそんなことになったのか(中略)あたしにはどうしてもわけがわからない」と素子に語っている(内部L)。綾子は、自分の「愛」があっという間に消え去って、もはや戻ることがないという事そのものに絶望しているのだ。これが70年前の、綾子みたいなお嬢さんにとってどれほど深刻なことなのか。それは原爆で「地獄を見た」素子の絶望に匹敵しうるのだ。だから綾子が、「自分はもう人を愛することができない」あるいは「誰かを愛してもまたあの時のように突然愛が消えてしまったらどうしよう」というという考えから死を選ぶのは決してありえないことではない。実際綾子と素子が出会ったのも、綾子の自殺未遂が原因であることも下巻391ページに綾子自身が「あの病院で、どうにでもなれと思って薬を飲んだ」と言っている事から明らかになっている。
 
 絶望や希望にはその人独自の基準があってそれはなかなか修正できるようなものではない。相馬は自分の基準でしか考えられなかったから素子や綾子を理解することができず、救うこともできなかったのだ。先ほど紹介したブログのブログ主の方も相馬同様それが理解できていない。だからこそ上のような感想が出てくるのだと思う。
まして彼らは昭和29年に青年だった人々で、モラルや価値観の点でも現代人とは比べ物にならないくらい保守的であったことは理解しておかないといけない。
 さらにこのブログには「『死の島』には小説を読む愉しさが徹頭徹尾存在しない。どの登場人物にも感情移入出来ない全く面白みに欠けた作品が『死の島』である」とまで書かれている。私は全くこれには賛同できない。いや、この作品を実際読んだ方の大部分は全くそうは感じないだろうと思う。それどころか登場人物はみな魅力的だ。特に綾子は文学史に残る(?)可憐で魅力的なヒロインで、この作品のファンには綾子萌えのファンが非常に多いらしい。素子も今で言うところの「ツンデレ」の魅力があって、特に夜の仕事に出かけようとおめかしして出てきたところで相馬に「綺麗だ」と言われて照れる(?)シーンなど魅力が炸裂。主人公の相馬も、まあいわば頭でっかちで芸術家気取りのディレッタントなんだけど、その博識ぶりと屈託ない明るさに綾子が(素子も)惹かれるのは理解できる。さらにこれだけ重たいテーマを描きながら、全く難渋な作品ではない。それどころか軽妙な味さえ出ていると思う。
 
「『死の島』は相馬が素子と綾子のどちらを愛しているかを掘り下げるテーマを持っている」というのも明らかな読み違いで、この作品のテーマは「素子と綾子のふたりを愛してしまった相馬が二人とも失ってしまう」ではないのだろうか(いやそれもこの作品のテーマの一部にすぎないんだけど)。
 男だったら、誰だっていっぺんにふたりの女を好きになったくらいの経験あるのではないか?全然おかしなことじゃないし、私にも経験がある。そして私の経験から言えば綾子みたいな女性は絶対に「相馬さんは素子さんのことがお好きなのよ」というような自分の意見を曲げないし、素子みたいな女性は相馬を拒絶し続け、結果「二兎を思うもの一兎を得ず」になるのだ。これはもう世の中の倣いで、時代が変わろうと同じである。
 まあそれを「愛の不可能性」と呼んでもいい。もし相馬が素子か綾子のどちらか一方を熱愛していたら、どちらかを救えたかもしれない。いや多分それでも結果は変わらなかったのではないかとも思うが、どちらにしろそれでは小説にならない。
 もちろん構成・物語の進め方も見事なもので、例えば延々と続く列車内の様子。名古屋で乗ってきて京都で降りる「茶の本」を読む若い女性や、酔って間違って乗ってきた特攻隊くずれの男などが現れて物語に立体感を与える。戦後まだ8年、日本は高度成長のとば口に立っていた時代で、被爆者でなくてもまだ戦争の痛みの癒えない者もいたし、その分人情も厚い時代だった。京都で降りた女性の、ただ列車で一緒になっただけの相馬を気遣う別れ際の挨拶など、当時は当たり前だっただろうが、今時の若い女性ならほとんど絶対にできないようなもので、これを読むと現代人の失ったものの大きさをも思い知らされる。
 
 そこから図らずも寝入ってしまった相馬は夢を見る。この夢の、まるで現実を歪めていくような描写はなかなか強烈で、その中で相馬が自分の小説と現実を混同していることや、無意識に綾子ではなく素子を選んでいることを語る。
 そう言った展開の中に、素子の心情を描く「内部」と綾子の元恋人の「或る男」の同じ日の行動を描く部分が挿入される。「内部」では素子が、「それ」(「死」)に飲み込まれ、綾子も素子が死ぬ気であることと知った上で一緒に下宿から出て、広島の宿で薬を飲むまでが描かれる。その合間に素子の原爆体験がカナ書きで挿入される。この「内部」がこの作品の一番読みにくい部分だと思う。
 原爆体験の描写が甘い、という意見もある。そうだろうか。私は生まれも育ちも長崎県で、小さな頃からいろんな人の原爆体験を聞いてきたが、素子の原爆体験はそれら現実の話にも全く引けを取らない恐ろしく迫力のあるものだと思う。
 
「或る男」のパートの主人公は、自堕落なジゴロ男だが、彼の悲惨な少年時代から、たった一人本気で愛した女性(綾子)の事を語る。この部分だけは他の部分と登場人物も舞台も全く違うのだが、何とも言えない独特の感触のある部分で、彼の寂しさと綾子の寂しさが共鳴して「愛」のようなものが発生したのだろうと読み取れるのだが、なぜ前述のように綾子の愛が「汐が引くように」無くなったのかは彼のモノローグからも読み取れない。
 
 さらにラストに至ると、三種類のバッドエンドが用意されていて、あたかも読者が好きな結末を選んでいいような錯覚を与えるのもこの作品の巧妙な点である。読めばわかるが実際にはこの三種類の結末は、どれを選んでも結果として同じなのである。どのパターンでも素子は虚無の向こうへ姿を消し、一番マシだと思われる綾子生存パターンを採っても、綾子はこのあと相馬を完全に拒絶するだろう事は明白である。
 
 このラストを踏まえて時系列で「○○日前」のラインを読んでいくと、ふたりのどちらを選ぶのか、早い時点で相馬が明確な態度を示していたらこの最悪の事態は避けられたのではないかと思うのだが、そういう間違いは人生ではよくあることだし、いずれにしても過去は変えられない。
 
 小説家にできることは、そんな日々を文章の中に固定し、遺すことだけだ。そして相馬=福永は素子と綾子を救うことには失敗したが、昭和29年1月23日と、それに先立つ300日間を極めて精密な小説として、永遠に遺すことに成功したのだ。

シュティフター 石さまざま

先日紹介したケラー「白百合を紅い薔薇に」とともに中央公論社「世界の文学」第14巻に収録されていたオーストリアの作家アーダルベルト・シュティフターの代表作。6作からなる短編集。前にも書いたが岩波文庫の「水晶 ほか3編」ではそのうち4作しか収録されておらず、今回残りの2作は初めて読んだ。

「みかげいし」は家の前にある、皆が腰かける御影石をきっかけに子供のころ祖父に聞いた、ペストが流行した時代に家族でただ一人生き残って山で暮らした少年と少女のお話を思い出す話。恐ろしくも美しく、ノスタルジックな不思議な感興をもたらす作品。ただ岩波文庫で「瀝青」としてあるところが「ピッチ」になっていて最初意味が分からず戸惑った。

石灰石は語り手の技師と荒涼たる集落に住む神父との交流の話。神父のキャラクターも印象的だし、嵐や洪水の描写が見事。この作家の作品は基本善意にあふれたものが多いがこれはその最たるものだと思う。翻訳では「牧師」となっているが、彼はカトリックなのでこれは明らかな間違い。のちの岩波文庫版でも「牧師」のままだ。なぜ「神父」に改めないのか意味が分からない。

今回初めて読んだ電気石は母の不倫の結果すべてを捨てた父の影響で社会から隔絶されて生きてきた少女の話。これだけは非常に暗澹たる話で、作品中かなり異色のものだ。ハッピーエンドなのが救いではあるが、ネグレクトをテーマにしていて現代にもありそうな話でもある。

「水晶」はこの作家の全作品中の白眉とされる作品。幼い兄妹が祖母の家からの帰途の山道で雪で道を見失い、奇跡的に生還する話だが、全編を通じて美しい自然描写が見事。翻訳では兄に従う妹の台詞「そうよ、コンラート」になにかひねりが欲しかった。

「白雲母」も今回初めて読んだ作品。幼い姉弟と仲良くなる山に住む少女の交流を描いている。彼女は、おそらくジプシーの娘なのだがその素性は最後まで語られない。危険な雹に襲われたとき、家が火事で全焼し弟が危険な状態になったとき彼女に救われるのだが、彼女はある日、「シュトゥーレ・ムーレが死んだ」と言い残して不意に姿を消してしまう。このセリフが最初のほうで祖母が姉弟に語った昔話にあった「シュトゥーム・ムーレに言っておくれ、ラウ・リンデが死んだとね」という台詞と響きあって不思議な読後感が残る。これはこの作品集のみならず、私が読んだ中ではシュティフターの全作品中でも一,二を争う傑作だと思う。個人的には「水晶」より好きなのだが、なぜ岩波文庫はこの作品を割愛したのか理解に苦しむ。

「石乳」はナポレオンの軍隊に攻め込まれ、戦争に巻き込まれた屋敷での恐怖の一夜とその顛末を描いた作品。これもきっちりハッピーエンドなのがいい。

どの作品も子供が危険な目にあって、それを人々やあるいは自然(神)が守るというパターンで、子供を社会の宝と考え、各々の個性を生かせる社会を心から求めていたこの作家らしい作品集だと思う。冒頭に置かれた「まえがき」は作品の柔らかいトーンとは全く異質な硬い文章ではあるが、個人の個性を尊重することが世界を良くするということを語っていて、作品世界と響きあっているのだ。

ただやっぱり翻訳が古い。後で出た岩波版は少し手が入っているとはいえ、古さは否めない。松籟社版は違う翻訳なので読んでみたいなあ。

スタニスワフ・レム 地球の平和

ついに刊行されたレムの「泰平ヨン」シリーズ最終作。長らく翻訳を待っていた作品をついに読むことができて大変嬉しい。

冷戦でエスカレートするばかりの軍備拡張に倦んだ各国の人々は、軍事産業をすべてAIに任せたうえで、月で行うことにする。しかしその後、地球上は平和になったのだが、月での軍備拡張レースがどうなっているのか全く分からない。そこで泰平ヨンを月に派遣することになる。ヨンは遠隔人という技術(遠隔操作できる、というよりも人が憑依できるアンドロイドのようなもの)を使って月に降り立つのだが…

泰平ヨンシリーズはこれまでに宇宙飛行士であるヨンが訪れた様々な星でのエピソードを描いた短編集「航星日記」、ヨンが地球で出会ったマッドサイエンティストなどについて書いた短編集「回想記」、薬物まみれの未来社会を描いた中編「未来学会議」、そして惑星エンチアでの二つの対照的な社会を訪れる長編「現場検証」の4冊が出ていて、それぞれが傑作なのだが、この「地球の平和」は「泰平ヨンシリーズ」ばかりでなく、「ソラリス」や「インヴィンシブル」をはじめとしたSF作品や、非文学の作品も含めてこれまでの作品の要素が随所にちりばめられたものになっていて、レムの集大成的な作品だと思う。遠隔人の開発の歴史は「回想記」のいくつかのエピソードを連想させるいかにも泰平ヨンシリーズらしいもので、この技術の登場が社会に及ぼす影響を面白おかしく書いてしまうところはさすがの一言。何種類もの違うタイプの遠隔人を操作したという設定で繰り返される月での「コンタクト」のヴァリエーションは圧巻だし、脳梁切断によりもう一つの人格ができてしまったヨンをめぐる部分ではドタバタにアレンジされているとはいえ、どことなく「ゴーレムXIV」のGOLEMとHONEST ANNIEの関係を連想させる。

第2章で兵器の進化についてのレムらしい考察が語られるが、これは「二十一世紀叢書」の「二一世紀の兵器システム、あるいは逆さまの進化」で考察されたこととほぼ同じで、最終兵器は核兵器などではなく、核爆発にも耐えうる(今風に言えば)超小型のドローン兵器だとしている。これは「インヴィンシブル」の「黒雲」にも似ている。現実世界でもドローン兵器が出現していることを考えるとレムの考察はかなり的を得ているのかもしれない。この「地球の平和」でも超小型ドローン兵器ともいえる分散型遠隔人が地球の文明を破壊する決定打になってしまう(この分散型遠隔人は「現場検証」に登場した「知精」を連想させる)。そして文明の破壊が地球の平和をもたらすというバッドエンド(いや、ハッピーエンドなのかも)はいかにもレムの創作の最後を飾る作品にふさわしい(いやこの後更なるバッドエンドの「大失敗」が書かれているわけだが)。

「LEM」という名称をさまざまに変化させたりするのも面白いし、ミステリ的な要素も入って読み応えがある。惑星エンチアの文化の記述に200ページを費やした(私はこれもとても好きなのだが)「現場検証」のような難渋さはなく、レムの作品としてはとても読みやすい作品だと思う。

これまでのシリーズがすべて深見弾氏の翻訳で出ていて、一人称が「吾輩」だったのだが今回は柴田文乃氏の翻訳で、一人称は「私」になっている。深見弾氏の翻訳も最近は大野典宏の手で一人称が「私」に改竄されつつあるが、ここはやっぱり「吾輩」で通してほしかった。「地球の平和」はシリーズの中ではかなりシリアスな要素が強い話だが、やはり法螺話的な部分も大きな割合を占めている作品だと思う。だからこそ諧謔を感じられる「吾輩」のほうがよかったように思う。

というわけでレムコレクション第二期、残る4冊も非常に楽しみ。それにしても「マゼラン雲」が翻訳できるんなら「主の変容病院」の続きも翻訳できないものか。

あとこの装丁はあまりにも奇抜すぎる。何とかならなかったのだろうか。