福永武彦 死の島

 今日1月23日は私の最愛の小説、福永武彦「死の島」の日。これを記念して、以前旧ブログに上げたロングレヴューを再掲させていただきます。。

 昭和29年1月23日。都内の小さな出版社に勤める小説家志望の青年相馬鼎(そうまかなえ)は、懇意にしている画家、萌木素子と彼女の同居人の相見綾子が旅行先の広島で服毒自殺を図った事を知らされ、急行列車に飛び乗る。
 原爆の被災者である素子は、そのときの強烈な体験から、今で言うPTSDに苛まれている。装丁の仕事を依頼しようと素子を訪ねた相馬は、そこで素子と、彼女と同居している普通のお嬢さんらしい綾子と知り合い、友人になる。素子と綾子の両方に惹かれだした相馬はこの二人をモデルにした小説(主人公の名前はM子とA子)を書き始める。

 上下巻で900ページもの分量を持つこの大作は、この日の相馬鼎の行動をトレースして行く部分と、彼の回想、彼の書きかけの小説、素子の意識を描き出す「内部」、そして「或る男」のこの日の行動という、別々の5つの部分を平行して、あるいは順不同に描いて行くという前衛的な手法で書かれている。時間や空間、それに視点も違ういくつもの部分がランダムに置かれていてきわめて多層的な内容を持っている作品である。まずは5つの部分について見ていこう。

⑴相馬鼎の、昭和29年1月23日朝からまる一日の行動を描いた部分。「朝」「昼」というふうな副題がついている。
⑵相馬鼎の、昭和29年1月23日へ至る300日間の素子、綾子との交流を描いた部分。「300日前(春)」といった副題がついている。
⑶萌木素子の、昭和29年1月23日未明に服毒自殺を図るまでの数日間の心情を描いた部分。「内部」という副題がついている。この部分では素子のその時の心情とは別に、素子の広島での被爆時の体験がカタカナ書きされた文章で挿入されている。
⑷「或る男」の、昭和29年1月23日の行動を描く部分。「或る男の午前」といった副題がついている。
⑸相馬鼎が、素子、綾子との交流から創作した、ふたりの過去を推定したような内容を持つ小説。「カロンの艀」「トゥオネラの白鳥」「恋人たちの冬」の三つの部分がある。

 この小説を語る時に、よく「時間が飛び飛びになってる」と指摘されるが、実は完全に時間が飛び飛びになっているのは⑵の部分と⑶の中のカタカナ書きされた被爆体験の部分だけである。⑵の部分は完全に章として独立しているし、⑶も被爆体験の部分はカタカナ書きなので容易に区別でき、例えばプルーストのようにシームレスに回想が入り込む作品よりはるかに読みやすいとは言えるだろう。
 ⑵の部分は⑴の部分での相馬の意識と大体連動していて、その時の相馬の心情から連想される回想の体をとっているので読んでいて違和感も少ない。

 ⑸の部分は萌木素子をモデルにした「M子」の過去を描く「トゥオネラの白鳥」、相見綾子をモデルにした「A子」の過去を描いた「恋人たちの冬」、そしてふたりの共同生活を描いた「カロンの艀」の三つの部分が、これまた順不同に置かれているが、この部分はあくまで相馬鼎の創作にすぎず、M子の参加する同人「土星人」や、A子が「K」という男性と出会う経緯などは全く素子や綾子の「現実」の過去とは関係がない。よく読むと特に「M子」はかなり饒舌で、⑵や⑶の部分に登場する素子とは随分キャラクターが違うことがわかる。また、「恋人たちの冬」に出てくるA子は、「現実」の綾子に比べるとずっと類型的に思えるがどうだろう。
 問題なのはその綾子のほうで、この作品には綾子視点の部分が全くなく、彼女の心情が読者に直接届くことはない。

 ⑷の部分の語り手「或る男」は「二日前」の章で相馬鼎が素子の勤めるバー「レダ」で出会った男で、綾子と一緒に昔駆け落ちした元恋人である。取っ替え引っ替え女性を替えてヒモ生活をしている自堕落なこの男の独白で、綾子の過去がうっすらと描かれるが、それもはっきりと綾子の心情に迫るわけではない。
 ⑸の部分は極論すれば作者が読者を混乱させるために用意したフェイクであるとさえ言える。ここで描かれるM子とA子は相馬の目を通して単純化・戯画化された素子と綾子にすぎない。この部分で我々が理解できるのは、相馬がどれだけ素子と綾子のことが理解できていなかったか、というその一点だけである。漫然と読むと読者も相馬同様素子とM子、綾子とA子を同一視して混乱するので気をつけなくてはならない。

 重要なのは、この作品の主要な登場人物4人のなかで、綾子だけが読者に直接心情を語ることがないという事だ。そのため綾子の行動にはよくわからない事が多い。なぜ彼女が素子とともに服毒自殺を図るまでに至るのかはっきりとは説明されない。読者によっては綾子が自殺を図るまで思いつめる理由が貧弱と感じる場合もあるだろう。だが綾子の心情が、ラスト近くの『内部L』まで語られない以上、少なくともそれまでは彼女が自殺を選ぶ理由が本当に貧弱なのかどうかすら読者には判断のしようがないのである。
 相馬が自分の印象から創作した「恋人たちの冬」のA子が語る心情を、語られない綾子の心情に重ねるとこの作品全体を大きく見誤ってしまうのではないかと思う。

 この作品では作中で過去の芸術作品について語られることが多い。主人公たちの芸術談義のネタとして様々な作品が登場してくるのだ。シベリウスの音楽、ベックリンムンクの絵画、玉堂の南画、岡倉天心の「茶の本」など多岐にわたる。

 ドイツの画家ベックリンについては相馬が素子を知ることになった「島」という作品がベックリンのそのものずばり「死の島」という作品に似ているということから語られる。記事冒頭に掲げた絵画がベックリンの「死の島」である。ただしベックリンはこのタイトル・モチーフで少なくとも5枚の作品を描いているのだそうだ。ただし、作中で素子はベックリンの画集を見て「この画家は死が自分の外にあったと思っていた」と断言し、そういう楽天主義は自分の作品とは程遠いといった趣旨の発言をしている。素子の「島」はもちろん実在する作品ではないが、もっと暗く、救いのないイメージの作品であると考えていいだろう。
 相馬は素子の作品に近いイメージの画家としてムンクを挙げている。そういえば私が初めてこの作品に触れたのは新潮文庫版だったが、そのカヴァーにムンクの絵画が使われていた。
 中でも大きくページを割かれて作品について語られるのがフィンランドの作曲家シベリウスだ。主人公である相馬が愛してやまない作曲家であるという設定で、素子や綾子を相手に蘊蓄を垂れるというシーンがある。正直この作品の時代設定である昭和29年には一般に人気があった作曲家だったとは考えにくいのだが、相馬のシベリウスへの偏愛ぶりはなかなかのもので、彼自身、自作小説の素子を主人公にした部分に「トゥオネラの白鳥」という表題をつけているが、これはもちろんシベリウスの代表作のひとつである交響詩の曲名でもある。この曲のイメージに素子の印象を投影したということだろうか。ちなみに綾子も『「トゥオネラの白鳥」を聞くと素子さんを思い出す』というような発言をしている。
 「トゥオネラの白鳥」は「レミンカイネン組曲」もしくは「四つの伝説曲」と呼ばれる連作交響詩の第2曲で、幽玄な趣の静かな曲で、シベリウスの作品の中では早くから親しまれた作品であるが、作中で相馬も語っているが第4曲「レミンカイネンの帰郷」という曲がこの作品を読む上での鍵の一つになっている。
 演奏時間7分ほどのこの作品は、聴いてみると結構騒々しくて、お世辞にも傑作とは言えないが、相馬が語るようにまずばらばらな動機がいくつか提示され、曲が進むといつの間にかそれが統一されていく。この曲の構造を小説に取り入れようと構想したのが相馬の小説なのだが、もちろんこの「死の島」という作品全体がこの構造をさらに深化した構成を持っているのだ。
 私は「死の島」という作品が、「多層的な内容を持っている」と述べたが、それは5つの異なる部分が順不同に登場する複雑な構成のことだけを指しているわけではない。相馬が上に述べたような芸術論を語ったり、劇作家加藤道夫の死(昭和28年12月22日)から芸術家の自殺について語る部分があるという点でディレッタント小説(そんなジャンルがあるかどうかは知らないが)でもあり、相馬が飛び乗る急行「きりしま」を描いて鉄道小説でもある。もちろん被爆の惨状と後遺症を伝える原爆小説でもあるわけで、そういう多義的な内容を駆使して作者が描いたのは、やはりこの作家の永遠のテーマである「愛の不可能性」について、なのだ。
 さて「死の島」は既に名作として高い評価を受けている作品で、普通であれば私などがいまさら色々述べることなどないと思うのだが、ネットでの評価などを見ていると私が思いつきもしないような感想を述べている方もいらっしゃる。この作品そのものがかなり謎を孕んだまま終わっているためでもあろう。その辺も踏まえて総合的な私の解釈を述べてこの稿を終えたいと思う。
 まず、ネットを巡回していて気になったのはあるブログの記事だ。このブログほどこの「死の島」という作品を酷評した文章は他で見たことがない。
 このブログ主の方は一言で言えばこの作品を、構成はすごいけど書かれている内容は稚拙、と断じている。
 確かに私も「レダ」で相馬にも骸骨が見えてしまうシーンはちょっとやりすぎだと思うし、相馬という主人公が比較的軽い男で、素子と綾子の二人とも愛してしまう優柔不断な主人公であることで作品に対して否定的な気持ちが起こる気持ちはわからないでもないのだが、この「小説の致命的欠陥は、原爆で地獄を体験した素子はともかく、家出して結婚した男との新生活が失敗した程度の綾子が自殺する理由が見い出せない」事、というのはどうだろう。
 
 綾子がなぜ死のうとまでしたのか、それが理解できなくてはこの作品を読んだことにはならない。綾子は自分の「或る男」への愛が消えた時のことを「今までは深い豊かな海だったのよ、それが見る見るうちに汐が引くとあとには岩だらけの砂浜が残って、気味の悪い鳥の死骸とか、ぬるぬるした海藻とか、砕けた貝殻とかしか残っていないの。なぜそんなことになったのか(中略)あたしにはどうしてもわけがわからない」と素子に語っている(内部L)。綾子は、自分の「愛」があっという間に消え去って、もはや戻ることがないという事そのものに絶望しているのだ。これが70年前の、綾子みたいなお嬢さんにとってどれほど深刻なことなのか。それは原爆で「地獄を見た」素子の絶望に匹敵しうるのだ。だから綾子が、「自分はもう人を愛することができない」あるいは「誰かを愛してもまたあの時のように突然愛が消えてしまったらどうしよう」というという考えから死を選ぶのは決してありえないことではない。実際綾子と素子が出会ったのも、綾子の自殺未遂が原因であることも下巻391ページに綾子自身が「あの病院で、どうにでもなれと思って薬を飲んだ」と言っている事から明らかになっている。
 
 絶望や希望にはその人独自の基準があってそれはなかなか修正できるようなものではない。相馬は自分の基準でしか考えられなかったから素子や綾子を理解することができず、救うこともできなかったのだ。先ほど紹介したブログのブログ主の方も相馬同様それが理解できていない。だからこそ上のような感想が出てくるのだと思う。
まして彼らは昭和29年に青年だった人々で、モラルや価値観の点でも現代人とは比べ物にならないくらい保守的であったことは理解しておかないといけない。
 さらにこのブログには「『死の島』には小説を読む愉しさが徹頭徹尾存在しない。どの登場人物にも感情移入出来ない全く面白みに欠けた作品が『死の島』である」とまで書かれている。私は全くこれには賛同できない。いや、この作品を実際読んだ方の大部分は全くそうは感じないだろうと思う。それどころか登場人物はみな魅力的だ。特に綾子は文学史に残る(?)可憐で魅力的なヒロインで、この作品のファンには綾子萌えのファンが非常に多いらしい。素子も今で言うところの「ツンデレ」の魅力があって、特に夜の仕事に出かけようとおめかしして出てきたところで相馬に「綺麗だ」と言われて照れる(?)シーンなど魅力が炸裂。主人公の相馬も、まあいわば頭でっかちで芸術家気取りのディレッタントなんだけど、その博識ぶりと屈託ない明るさに綾子が(素子も)惹かれるのは理解できる。さらにこれだけ重たいテーマを描きながら、全く難渋な作品ではない。それどころか軽妙な味さえ出ていると思う。
 
「『死の島』は相馬が素子と綾子のどちらを愛しているかを掘り下げるテーマを持っている」というのも明らかな読み違いで、この作品のテーマは「素子と綾子のふたりを愛してしまった相馬が二人とも失ってしまう」ではないのだろうか(いやそれもこの作品のテーマの一部にすぎないんだけど)。
 男だったら、誰だっていっぺんにふたりの女を好きになったくらいの経験あるのではないか?全然おかしなことじゃないし、私にも経験がある。そして私の経験から言えば綾子みたいな女性は絶対に「相馬さんは素子さんのことがお好きなのよ」というような自分の意見を曲げないし、素子みたいな女性は相馬を拒絶し続け、結果「二兎を思うもの一兎を得ず」になるのだ。これはもう世の中の倣いで、時代が変わろうと同じである。
 まあそれを「愛の不可能性」と呼んでもいい。もし相馬が素子か綾子のどちらか一方を熱愛していたら、どちらかを救えたかもしれない。いや多分それでも結果は変わらなかったのではないかとも思うが、どちらにしろそれでは小説にならない。
 もちろん構成・物語の進め方も見事なもので、例えば延々と続く列車内の様子。名古屋で乗ってきて京都で降りる「茶の本」を読む若い女性や、酔って間違って乗ってきた特攻隊くずれの男などが現れて物語に立体感を与える。戦後まだ8年、日本は高度成長のとば口に立っていた時代で、被爆者でなくてもまだ戦争の痛みの癒えない者もいたし、その分人情も厚い時代だった。京都で降りた女性の、ただ列車で一緒になっただけの相馬を気遣う別れ際の挨拶など、当時は当たり前だっただろうが、今時の若い女性ならほとんど絶対にできないようなもので、これを読むと現代人の失ったものの大きさをも思い知らされる。
 
 そこから図らずも寝入ってしまった相馬は夢を見る。この夢の、まるで現実を歪めていくような描写はなかなか強烈で、その中で相馬が自分の小説と現実を混同していることや、無意識に綾子ではなく素子を選んでいることを語る。
 そう言った展開の中に、素子の心情を描く「内部」と綾子の元恋人の「或る男」の同じ日の行動を描く部分が挿入される。「内部」では素子が、「それ」(「死」)に飲み込まれ、綾子も素子が死ぬ気であることと知った上で一緒に下宿から出て、広島の宿で薬を飲むまでが描かれる。その合間に素子の原爆体験がカナ書きで挿入される。この「内部」がこの作品の一番読みにくい部分だと思う。
 原爆体験の描写が甘い、という意見もある。そうだろうか。私は生まれも育ちも長崎県で、小さな頃からいろんな人の原爆体験を聞いてきたが、素子の原爆体験はそれら現実の話にも全く引けを取らない恐ろしく迫力のあるものだと思う。
 
「或る男」のパートの主人公は、自堕落なジゴロ男だが、彼の悲惨な少年時代から、たった一人本気で愛した女性(綾子)の事を語る。この部分だけは他の部分と登場人物も舞台も全く違うのだが、何とも言えない独特の感触のある部分で、彼の寂しさと綾子の寂しさが共鳴して「愛」のようなものが発生したのだろうと読み取れるのだが、なぜ前述のように綾子の愛が「汐が引くように」無くなったのかは彼のモノローグからも読み取れない。
 
 さらにラストに至ると、三種類のバッドエンドが用意されていて、あたかも読者が好きな結末を選んでいいような錯覚を与えるのもこの作品の巧妙な点である。読めばわかるが実際にはこの三種類の結末は、どれを選んでも結果として同じなのである。どのパターンでも素子は虚無の向こうへ姿を消し、一番マシだと思われる綾子生存パターンを採っても、綾子はこのあと相馬を完全に拒絶するだろう事は明白である。
 
 このラストを踏まえて時系列で「○○日前」のラインを読んでいくと、ふたりのどちらを選ぶのか、早い時点で相馬が明確な態度を示していたらこの最悪の事態は避けられたのではないかと思うのだが、そういう間違いは人生ではよくあることだし、いずれにしても過去は変えられない。
 
 小説家にできることは、そんな日々を文章の中に固定し、遺すことだけだ。そして相馬=福永は素子と綾子を救うことには失敗したが、昭和29年1月23日と、それに先立つ300日間を極めて精密な小説として、永遠に遺すことに成功したのだ。