ブルックナーという作曲家について

私はクラシック音楽も好きなのだが、では作曲家ではだれが好きですかと言われたらブルックナーシベリウスを挙げる。この二人の音楽に共通するのは、ブルックナーにはオーストリアの深い森、シベリウスにはフィンランドの冷え冷えとした大地という自然の壮大さが描かれ、そのかわりあまり人間の感情が曲に現れないということではないだろうか。たとえばチャイコフスキードヴォルザークマーラーあたりが感情をそのまま吐露したような作品とは全く違う。

アントン・ブルックナー(1824 - 1896)はオーストリアの作曲家。生涯を通じて11曲の交響曲と数曲のミサ曲などの宗教曲、少数の室内楽や器楽曲を遺した。その作風はどことなくオルガンの響きを感じさせる神々しい輝きと自然の美しい描写が響きあう独特なもので、昨今はかなり人気のある作曲家としてよく演奏会でも取り上げられている。

彼の前半生は教会のオルガニストとして活躍し、ミサ曲など宗教曲の大半はその時期の作品で、交響曲を作曲しだしたのは職業作曲家として立つことを志した40代になってからだという。11曲の交響曲のうち最初の作品は「習作」とされ「00番」とも呼ばれる中期ロマン派みたいなフツーの曲。その後本人の個性が発揮された第1番が作曲され、その後に作曲された交響曲はのちに本人によって「無価値」とされ「nullte」「第0番」と呼ばれることになった。以後第2番以降は順番に作曲され、最後の第9番は終楽章が完成せぬままに本人がなくなったため第3楽章までの未完成のまま演奏される。

私が初めてブルックナーの作品に触れたのは中学生の頃買ったワルター指揮の「第4」「第7」の二枚組セットだった。なんか茫洋とした音楽だなと思ったものだが、興味がわいたのはその後第7のフルトヴェングラーの演奏を聴いたときに、どちらがどうだったかは忘れたが第2楽章のクライマックスでシンバルが鳴ってティンパニの連打が入るやつとまったく鳴らないやつがあったことだ。なんでこんなことになるんだろうと思ったものだ。

ブルックナー交響曲で問題なのは改訂問題だ。かなり優柔不断だったブルックナーは周囲の意見に左右され、一度完成された作品に後から手を入れることが多かった。特に第3交響曲が演奏不能と言われたり、初演の大失敗などが原因になったのか、その頃すでに完成していた第4までの交響曲を大幅に改訂している。第1番は小さな変更に留まったものの、第2番は第2楽章と第3楽章の配列の変更、第4楽章の大幅な改稿が行われた。第3番も各所になあったワーグナーの楽劇からの引用が削除されたりと大幅に改稿された。さらに第4番に至っては第3楽章が全く別の曲に置き換えられ、ほかの楽章も基本のメロディ以外はほとんど別の曲と思えるほどの改稿が行われた。第4番はその後も終楽章の全面改稿など都合3回の大改稿を受け、今演奏されうるバージョンが大まかに4種類あるという大変ややこしい事になっている。その後の第5から第7は大きな改稿はされなかったが、第8番は第1楽章の終わり方など大きな変更を受けている。さらにブルックナーは第8番が作曲された頃になぜか第1番の改稿をはじめ、これまた大幅な改稿がなされた。

このため現在ではブルックナーの演奏を語るとき、どの稿や版で演奏されているかがかなり重要になってくる。さらに昔の、歴史的録音の部類に入るものの場合は弟子たちによる短縮版・改竄版というものもありややこしい。ちなみに上に書いた「第7」のシンバル・ティンパニ問題については、第7には旧全集のハース版、新全集のノヴァーク版くらいしか版の問題はないので改稿問題とは関係なく、1944年のハース版だけがシンバル・ティンパニなしで、1885年の初版、1954年のノヴァーク版にはあるらしい。ちなみに我が家で今聞ける音源ではヴァント盤だけが何も鳴らず、ほかの演奏はすべてシンバルとティンパニが入っていた。

というわけで、今後ブルックナーの作品とその演奏についてすこしずつ書いていこうと思います。