イワン・エフレーモフ アレクサンドロスの王冠

イワン・エフレーモフは「アンドロメダ星雲」「丑の刻」などの作品で知られるソビエト連邦時代のSF作家。上に挙げた二作は宇宙探査を描いた作品で、のちのアメリカのSFドラマ『スタートレック』の原型かとも思えるほどのハードSF。書かれた時代の背景から致し方ない部分もあるが、かなり楽天的に共産主義を礼賛する内容で今の目からするとそのへんが気になる作家だ。その作家の「アレクサンドロスの王冠」なる長編小説を手に入れたので読んでみた。

これはかなり文庫本上下で900ページに及ぶ大作で、基本的にSFではない。作者は「冒険小説」としているが、まあ大筋ではそう呼んでもよさそうだ。この作品はそれぞれが短めの長編小説くらいの分量の4つの部分に分かれている。最初の部分ではサンクトペテルブルグを舞台に主人公の心理学者イワン・ギーリンの研究とシーマという娘との出会いが語られる。第2部では一転してイタリア人芸術家チェザレと仲間たちが、宝探しにアフリカ沿岸の海に乗り出す、あたかも映画『冒険者たち』を彷彿とさせる物語になる。ここで初めてタイトルの「アレクサンドロスの王冠」が登場。彼らが発見したこの王冠をかぶってみたチェザレの恋人レアが突然記憶喪失になってしまう。下巻に移って第3部では、最初の2章でサンクトペテルブルグに住む地質学者イヴェルネフと婚約者タータの物語が、その後は一転してインドの彫刻家青年ダヤラムとチロターマといういう踊り子の物語が語られる。これらの物語が「アレクサンドロスの王冠」を巡って第4部に収束していく構成で、メインのストーリーとしてはやや古くさいが、アクションシーンもあり大変面白い。でも正直長すぎる。1/3の量で充分に語れる内容だし、そのほうがずっと面白い作品になったと思う。

無駄な部分が多すぎる。物語そのものから言っても、冒頭の若いギーリンとアンナが出会う話はのちのストーリーに一切の関係がなく全く不要だし、後の方でギーリンの研究の成果として人類の遠い過去の記憶をよみがえらせるシーンなども面白くないことはないがストーリーと無関係。ダヤラムの暗闇の中での修行もそうだ。伏線を張っておきながら何も解決しないイヴェルネフとタータの話も中途半端だが、そういったストーリー的な脱線より、ギーリンが時折共産主義を礼賛して「演説」をする(しかもそれに大変多くのページ数を割く)のが非常に面倒くさい。しかもその主張は1日14時間働くのが当たり前とか信じられないくらい前時代的。最後の方でチロターマが殺害され、実行犯は捕らえたものの、本当の敵(もちろん資本主義者)を逃がしてしまったままなのもどうにも座りが悪い上に、そっちはほっといてインドの偉い人たちを相手にまた共産主義礼賛の演説をぶってるあたりがどうにも。

問題の「アレクサンドロスの王冠」にしても結局どうなったことやら。

結局作者はそのころ共産主義に好意的だったイタリアやインドを持ち上げて冒険小説の体裁で共産主義礼賛小説を書きたかったのだろうと思うしかない。とはいえギーリンはその「演説」の中で何度も共産主義が成り行くには「かみそりの刃」を渡るようなバランスが必要と主張している。共産主義は悪意を持つひとにぎりの人間がいると立ち行かない。この作品で、そのような微妙なバランスの上でしか理想の共産主義が成り立たないことをエフレーモフは主張してもいるのだ、と思う。