スタニスワフ・レム マゼラン雲

レムの初期の作品で、著者の意向でこれまで翻訳を許されなかったいわくつきの作品。 2段抜きで450ページにわたるかなりの大部で読むのに相当時間がかかった。

32世紀。人類は巨大宇宙船ゲア号でアルファ・ケンタウリを目指す片道10年の探査に出る。医師の父を持ちグリーンランドで育ち、マラソン選手として活躍しながらもいつしか宇宙を目指すようになった「私」はゲア号で旅立つが…といった物語。

レムとは思えない、どちらかというと「スタートレック」やエフレーモフの「アンドロメダ星雲」や「丑の刻」を思わせるオプティミズム溢れるSF。非常に興味深く面白かった。前半は「私」の前半生と出発に至るまでがかなり克明に描かれ、その後はゲア号で出会う人々の話が続く。かなり多数の登場人物があり、他のレムの作品ってほとんど女性が出てこないんだけど、これは共産主義っぽく男女同権な社会が描かれていて女性の登場人物も多い。後に共産主義をはっきり否定してからの作品はほとんど男しか出てこない(特に「エデン」と「砂漠の惑星」は女性はただの一人も出てこない)わけで、当時の資本主義は男系社会だったって事だろうか。

この世界にはなぜか「秒速190000kmの壁」というものが設定されている。高速の6割強のスピードだが、これを超えると人間は意識不明になり死に至るというのだ。これは他のSF作品でお目にかかったことのない設定でかなり新鮮。亜光速航行さえ許さないレムさすがだ(笑)。プロキシマ・ケンタウリに到着するとそこには米軍のものと思しき宇宙船の残骸があったり、そこからウィルスが侵入して感染・死亡者が出たりするあたりはかなりリアル。臨月の妊婦の出産中にいきなり発生した事故で重力が消失するシーンはなかなかの緊迫感。アルファ・ケンタウリでは金星に似た惑星に住む異星人が現れ、結果的にコンタクトが成功するのだが、そのとき主人公が別な場所で別な仕事をしていたため相手の異星人をはっきり見せないところはニクい。

以前から言われていたようなエフレーモフの作品のような「共産主義礼賛」というような内容は全くない。ただ物語の端々にこれが共産主義が勝利した後の理想世界であることをほのめかしてはいるが、それは「スタートレック」も同じことだ。

終盤で「秒速190000kmの壁」を破る方法が考案され、これによって恒星間航行がさらに効率的にできるようになるわけだが、それが次回作で亜光速宇宙船での旅から百年後の世界に帰ってきた主人公の苦悩を描いてかなりペシミスティックな「星からの帰還」へ繋がって行くと考えたら、これはこれで結構興味深いものがある。

のちの作品につながる要素がかなりふんだんに見受けられるのも興味深い。特に「大失敗」に似ているところが多く、物語のプロット自体も、事故で重体になった男性が探査の一員に加わるあたりも「大失敗」を思わせる。

後藤正子氏による翻訳は大変読みやすくて良いのだが、気になった事が2点だけ。何度か台詞で「マジで」というのが出てきたのに違和感があった事と、宇宙船に「ポチスク」とか仲間・友人に「トヴァジシュ」などといちいちフリガナを振っているのがかなり読んでいて煩わしかった。

あと、カバー裏の続巻案内の「捜査・浴槽で発見された手記」の部分で翻訳者が大野典宏氏から柴田文乃氏に変更になっている。間違いでなければこれは歓迎。だって大野の手の入った本は絶対買いたくないから(笑)