Star Trek : Strange New Worlds 第2話、第3話

第2話 Children of the Comet 訳せば「彗星の子どもたち」というところかな。

M型惑星で原始的な文明が存在しながら砂漠ばかりの星、ペルセボネ3に彗星が激突することが判明。これを阻止しようと光子魚雷を撃ち込むエンタープライズ。しかし彗星にはなぜかシールドが貼られていて光子魚雷を受け付けない。スポック、カーク、ラ・アンとウフーラが上陸すると明らかに高度な文明が作った謎の部屋が。カークが吹っ飛ばされて気を失う中、ウフーラは偶然この文明とコンタクトする方法を発見する。

というわけで第2話も面白かった!TOSっぽさ全開!スタートレックはこうでなくちゃ!冒頭船長が主要メンバーを集めてホームパーティを行うシーンでもウフーラの来歴が明かされたりして今回はウフーラの回だった。彗星の番人を名乗る謎の宇宙船とのドンパチもあって見どころ多かった。

でも話がややこしくて英語字幕で見るとなかなか理解できない。彗星の軌道がそれたシーンはスポックがシャトルで出ていくのだが何をしたのかよくわからなかった。一度見たあと画面にスマホかざして翻訳ソフト使って見てるけど…

 

第3話 Ghosts of Illyria「イリュリアの亡霊」

積極的に自分たちの遺伝子改造を行ったため連邦に参加することを禁じられたイリュリア人が放棄した研究施設を調査するエンタープライズ一行はそこでイオン嵐に遭遇、転送が難しくなった状況になる。ナンバーワンは他のメンバーとともにパイクとスポックを惑星上に残して帰還するのだが、帰還した調査班のメンバーが謎の疾病に冒されていることが分かる。他の乗組員にも次々に感染しエンタープライズはロックダウン状態に。しかし本来なら転送の時点でバイオフィルターによって感染症は排除され艦内に入らないはず。調査するうちナンバーワンは自身の秘密とDr.ムベンガの秘密に直面する。

今回の主役はナンバーワン。アンドリア人チーフエンジニアのヘマーを軽々と肩に担いだところは男前すぎる。艦内に感染症が広がるというのはいかにも現代的なネタ。遺伝子改造が禁止されているのはもちろん20世紀地球での優生戦争を踏まえてのことなのだろう。ラ・アンがカーンの血縁であることを理由に化け物扱いされたことなどを吐露するシーンもあり。ムベンガは転送バッファに不治の病に冒された娘を治療できる日まで保存している。なるほどそういう使い方もあるのか!でもこれ人間そのもののバックアップも取れそう。

あとパイクとスポックも結構なピンチに見まわれるのだが、パイクは例の事件までは自分の身に致命的なことが起きないことを知っているわけで、ある意味無敵だなあと思ったりした。

しかし今回はさらに英語が難しかった(笑)!
イオン嵐(Ion Storm)を英語では「アイオン・ストーム」と発音するのでてっきり「Iron Storm(アイアン・ストーム)」だと思って鉄の嵐って何よと真剣に思っちまった(笑)

 

スタニスワフ・レム マゼラン雲

レムの初期の作品で、著者の意向でこれまで翻訳を許されなかったいわくつきの作品。 2段抜きで450ページにわたるかなりの大部で読むのに相当時間がかかった。

32世紀。人類は巨大宇宙船ゲア号でアルファ・ケンタウリを目指す片道10年の探査に出る。医師の父を持ちグリーンランドで育ち、マラソン選手として活躍しながらもいつしか宇宙を目指すようになった「私」はゲア号で旅立つが…といった物語。

レムとは思えない、どちらかというと「スタートレック」やエフレーモフの「アンドロメダ星雲」や「丑の刻」を思わせるオプティミズム溢れるSF。非常に興味深く面白かった。前半は「私」の前半生と出発に至るまでがかなり克明に描かれ、その後はゲア号で出会う人々の話が続く。かなり多数の登場人物があり、他のレムの作品ってほとんど女性が出てこないんだけど、これは共産主義っぽく男女同権な社会が描かれていて女性の登場人物も多い。後に共産主義をはっきり否定してからの作品はほとんど男しか出てこない(特に「エデン」と「砂漠の惑星」は女性はただの一人も出てこない)わけで、当時の資本主義は男系社会だったって事だろうか。

この世界にはなぜか「秒速190000kmの壁」というものが設定されている。高速の6割強のスピードだが、これを超えると人間は意識不明になり死に至るというのだ。これは他のSF作品でお目にかかったことのない設定でかなり新鮮。亜光速航行さえ許さないレムさすがだ(笑)。プロキシマ・ケンタウリに到着するとそこには米軍のものと思しき宇宙船の残骸があったり、そこからウィルスが侵入して感染・死亡者が出たりするあたりはかなりリアル。臨月の妊婦の出産中にいきなり発生した事故で重力が消失するシーンはなかなかの緊迫感。アルファ・ケンタウリでは金星に似た惑星に住む異星人が現れ、結果的にコンタクトが成功するのだが、そのとき主人公が別な場所で別な仕事をしていたため相手の異星人をはっきり見せないところはニクい。

以前から言われていたようなエフレーモフの作品のような「共産主義礼賛」というような内容は全くない。ただ物語の端々にこれが共産主義が勝利した後の理想世界であることをほのめかしてはいるが、それは「スタートレック」も同じことだ。

終盤で「秒速190000kmの壁」を破る方法が考案され、これによって恒星間航行がさらに効率的にできるようになるわけだが、それが次回作で亜光速宇宙船での旅から百年後の世界に帰ってきた主人公の苦悩を描いてかなりペシミスティックな「星からの帰還」へ繋がって行くと考えたら、これはこれで結構興味深いものがある。

のちの作品につながる要素がかなりふんだんに見受けられるのも興味深い。特に「大失敗」に似ているところが多く、物語のプロット自体も、事故で重体になった男性が探査の一員に加わるあたりも「大失敗」を思わせる。

後藤正子氏による翻訳は大変読みやすくて良いのだが、気になった事が2点だけ。何度か台詞で「マジで」というのが出てきたのに違和感があった事と、宇宙船に「ポチスク」とか仲間・友人に「トヴァジシュ」などといちいちフリガナを振っているのがかなり読んでいて煩わしかった。

あと、カバー裏の続巻案内の「捜査・浴槽で発見された手記」の部分で翻訳者が大野典宏氏から柴田文乃氏に変更になっている。間違いでなければこれは歓迎。だって大野の手の入った本は絶対買いたくないから(笑)

Star Trek : Strange New Worlds 第1話

さて5月5日から米国で配信開始になった「スタートレック ストレンジ・ニュー・ワールド」だが、依然として日本での配信・放送の目途が立っていない状況が続いている。要するに日本のファンは普通の方法では観ることができないのだが、どうしても観たいという人は一定数いるだろう。しかしネットで探せばいくつか抜け道というかやり方はあるようだ。私もそうやって観ることができた。

これ以降この記事では内容などについてネタバレを含むので、ネタバレが嫌な方はスルーお願いします。

第一話「Strange new Worlds」。邦題は直訳なら映画第5作と被るが「未知の世界」というところか。23世紀。「ディスカバリー」第2シーズンで自分の未来を見てしまったパイクは艦隊の仕事に恐怖を覚えてモンタナの山奥に籠っていたが、部下のナンバーワンがKiley279という惑星で行方不明になったと聞き、エンタープライズで救出に向かう。エンタープライスには科学士官スポックのほかに副官ラ・アン、操舵手オルテガ、医療主任ムベンガ、看護師チャペル、通信士ウフーラらが乗り組む。

Kiley279は21世紀初頭程度の文明を持つ惑星だが、二つの陣営が対立していた。そこに高度な文明を持つ連邦の宇宙船が現れ、彼らはクルーを拉致し、何らかの方法で23世紀の武器を手に入れてしまっていた。惑星に潜入してナンバーワンとそのクルーを救出したパイクは、艦隊の大原則を曲げてKiley279の敵対する勢力が交渉中の会議場に割って入り、人類が経験した第三次世界大戦を引いて平和を訴える。

Kiley279に平和をもたらしたエンタープライズはサミュエル・カークら新たなクルーを加えて更なる発見の旅へ出る、という話。

ディスカバリー」や「ピカード」が10話前後の1シーズンで一つのエピソードなのに比べ、これはきっちり1話完結。スタートレックの原点に戻ったような作品だ。あのカーンと同じノニエン・シンの名を持ち、どうやら優生人類の子孫らしいラ・アン、これまでと全く違う印象だがなにやらキュートなウフーラ、TOSではちょい役だったのに今回めっちゃ目立ってるチャペルなど登場人物たちも第一話からキャラが立っている。

第1話ラストでスタートレックのオープニングで使われるナレーション(「Space, the final frontier...」で始まるアレの後半「to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no man has gone before」)をパイクのセリフにしたのもシビれる。さあこれ日本語版でどう訳すのか。日本語版のオープニングのままだとセリフにならないと思うのだが。

というわけでこの先も楽しみ。でも英語字幕で観るのはなかなか辛いなあ。

スタートレック・ピカード

スタートレックピカード」はあのピカード艦長のその後を描くシリーズ。先日第2シーズンの配信が終了した。第1シーズンは人口生命体をめぐる話で、話自体も地味だったし、なによりこれまでと違う倫理観の欠如した連邦の態度に疑問があり、正直不満だった。

今回の第2シーズンではQが登場、ピカードらは歴史が改変された世界に飛ばされてしまう。この歴史改変を是正するためにボーグ・クィーンの力を借りて2024年の地球を訪れたピカードたちだったが…というお話。

正直かなり面白かったのだが、全10話のTVシリーズにするには内容的にちょっと無理があったかな。FBIに拘束されるなどどう考えても不要なシーンが多かったし、同性愛的な要素をわざわざ入れる必要があったのだろうか。もっと刈り込んで2時間の映画でよかったと思う。それでもいろいろと「そう来たか!」と思わせる展開があって楽しかった。

さてこのシリーズで一番問題になるのは、ラスト近くでピカードの仲間の一人、アグネス・ジュラティ博士がボーグ・クィーンと融合してしまう。そしてラストでは、冒頭で侵略に来たと思われたボーグが実はほかの巨大な脅威に対してアグネスの意図で連邦に協力を求めていたことが明かされる所だと思うのだが、そうするとこれまでのシリーズで再三描かれてきたボーグの行動にはすべてアグネスの意図が働いていたと考えなければいけなくなる。TNG「浮遊機械都市ボーグ」でのピカードの同化が意外とあっさり解けたこと、映画「ファースト・コンタクト」で地球に落ちたボーグがENT「覚醒する恐怖」でも意外と簡単に撃退されたことは以前から疑問だったのだが、アグネスがそうしむけていたと考えれば納得がいくし、そのほかの、セブンがヴォイジャーに派遣されたことなどなにもかもがアグネスの意図が働いてのことだったと考えるととても興味深い。ボーグ関係のエピソードを全部見直してみたくなる。

厳密に考えると、それではあのパラレルワールド専制的な銀河帝国に囚われていたボーグ・クィーンは一体どこから来たのか(歴史の改変による分岐はアグネスとクィーンの融合以降に起こっているはず)など矛盾もあるが、まあそれはそれ笑笑。

それにしてもパトリック・スチュワート御歳81歳だそうで流石に老けた。第3シーズンで完結らしいが無事に演じて欲しいものだ。

ところでスタートレック関係は現在いろいろと問題が起きている。米国では「パラマウント+」という配信サービスが始まって、すべてのスタートレック関係の映像はここで配信しているらしいのだが、これに伴ってこれまで米国以外の国でNetflixで配信していたものがすべて配信停止になってしまった。このため現在日本では最新の第4シーズンはもとより従前の3シーズンを含めた「ディスカバリー」と5月に始まった「Strange New Worlds」が配信されていない。スタートレックの新作では、現在はAmazon Primeで配信されていたこの「ピカード」とアニメシリーズ「ローワー・デッキ」だけが観れる状態だ。特に「Strange New Worlds」は期待大のぜひ見たい作品。何とか早く観れるようにしてほしいものだ。

雪国 Snow Country

先日NHK-BSで放送された、川端康成の名作小説「雪国」を高橋一生奈緒主演でドラマ化した映像作品。

「雪国」は川端の作品としては「伊豆の踊子」に次ぐような回数で、何度となく映画やドラマで映像化されているのだが、どれも全く観たことがなかった。「伊豆の踊子」が吉永小百合の決定版的な映画があるのに比べると「雪国」は過去の映像作品になかなか決定版的な評価のものがないように思う。それは「雪国」という作品が「伊豆の踊子」に比べると文学作品としてかなり理解しにくいものであるからだろうとは簡単に想像できる。

実はこのドラマを観終わってさっそく「雪国」の文庫本を引っ張り出して読んでみたのだが、この小説、特に若い人などはドラマの印象がなければぱっと理解できないような部分も多いように思う。いやどんなに読んでも、駒子と葉子の関係性がよくわからない。わからなくて当然だ。川端が書いてないのだから。だが映像化ではそうはいかない。台詞などで説明的に述べる必要はないが、この二人の関係性をはっきり設定していないと映像作品として成り立たないのだ。

今回は葉子を森田望智さんという女優さんが演じている。この人はNETFLIXの「全裸監督」で話題になった人なのだが、素朴な感じの幼な顔の女優さんなので、小説の、どちらかというとシャープな印象のある葉子のイメージには程遠いと(個人的には)思う。そのせいだろうか、このドラマでは、どちらかというと駒子が葉子に対して強い立場であるように見えてしまう。

「雪国」という作品で語り手の島村は3度ほどこの雪国の町を訪れ、回想されるだけの一度目は初夏、冒頭部分からの二回目は冬、最後は晩秋なのだが、このドラマではすべて島村の心象風景としての雪景色の中で進められる。これは思い切ったアイディアだと思うが物語の静謐さと響きあっていい味が出ている。高橋一生は無為徒食で本質的に空虚な島村を見事に演じていた。奈緒は確か「半分、青い」に出てたと思うのだが、あまり印象のなかった女優さん。しかし今回はちょっとエキセントリックなところもある駒子を魅力的に演じていた。

ラストのほう、繭蔵が火事になったところで、まるで謎解きのように駒子の過去が語られるシーンがある。これは小説「雪国」としてみたら正直言って全くの蛇足だが、映像作品としては分かりやすいかもしれない。でもこれだけ説明的なシーンを加えても駒子が島村に「いい女」だと言われてキレるなどディティールの謎には迫れない。

そしてラストで天の川が島村の心に落ちてくる、あの印象的なシーンが映像化されていないのが残念。

冒頭の有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」が列車の中でないのも気になったのだが、冒頭で「こっきょう」と読んでラストで同じセリフを「くにざかい」と読んだ意図はなんだろう。

ボクらはみんな大人になれなかった

2021年劇場及びNetflixにて公開された邦画。原作は「燃え殻」というペンネームの作家による同名の小説。森義仁監督、森山未來伊藤沙莉主演。

TV番組で使うフリップやCGを制作する会社に勤めている40代の男性・佐藤。ある日facebookの「友達かも」に昔の恋人かおりの名前を見つけて、佐藤の思いは時を遡り始める。

最近の邦画はかなりいいかげんな恋愛映画が多いが、これはどうだろうと興味半分で観たのだが、うーん、なんだか中途半端にリアルなのに中途半端に意味不明な作品だと思う。

まず、この映画は冒頭に2021年コロナ禍の現在が置かれ、そこから時代を遡っていく構成になっている。場面ごとに何年とテロップで出るのだが、正直そこまでする必要があっただろうか。現在と、90年代のかおりとの日々だけでよかったのではないだろうかと思ってしまう。かおりと別れて10年ほど後に、結婚を考えながら結局は別れた恵という女性を大島優子が演じていて結構いい味出しているのだが、そもそもこのエピソード必要だっただろうか。

かおりがとても独特な美意識を持っているキャラなのに、当時流行していた小沢健二のファン(それも「神」と崇めるほど)というのもなんか適当な設定に思えるし、かおりという女性の私生活をはじめとするアイデンティティが、ふたりが「会うことがなくなって」別れた理由も含めて全く描かれないのも不満が残る。もっともこれは映画的には描かなくてもよかったことだとは思うのだが、サイドストーリーの一つでしかない恵のエピソードが結構詳細に描かれているのと対比するとメインの話であるはずのかおりのエピソードがちょっと弱いように思えてしまう。

まあそれでも主演の二人の演技力は見事。21歳の青年から40代半ばの中年を見事に演じきった森山は素晴らしいし、かおりは見ようによってはムカつくような子なんだけど、そんな子だけに好きになってしまうとヤバいというのはよくあることで、その辺を伊藤はうまく演じていたなあと思う。脇を固める東出昌大などもすごくいい演技をしているし、90年代の空気感もよく出ていた。多くの人々が抱えているであろう、今の自分に対する「こうなるはずじゃなかった」という思いは映像から伝わってくるしある種のノスタルジーと悔恨を観る者に与えて共感を誘うと思うのだが、それだけに時間を遡る構成が必要以上にひねりを入れすぎた感があって気になった。

レイモン・クノー 地下鉄のザジ

レイモン・クノーの代表作「地下鉄のザジ」を、白水社レイモン・クノー・コレクションの久保昭博による翻訳版にて読了。

ザジという10歳くらい(?)の女の子がパリに住む叔父のガブリエルに預かられることになってやってくる。ザジはパリで地下鉄に乗ることを楽しみにしてやってきたのだがあいにく地下鉄はストライキで運休中。ザジのパリでの一日の冒険が始まる。ガブリエルはオカマバーでダンサーとして働いているし、いずれもひと癖あるガブリエルの隣人たち、変態なのか警官なのかわからない、名前をいくつも持った謎の男など様々な人物が登場してザジの冒険を彩るが、さてザジは地下鉄に乗るという目的を果たせるのか。

…というわけでなかなかドタバタの一見キュートなお話なのだが、クノーらしく謎や仕掛けもいろいろ施してあって非常に多面的で興味深い作品だ。いかにも1960年代のパリらしいとも言えるし、全然現代の話でも違和感ないようにも思える登場人物たちの、言行はリアルでありながらアイデンティティを曖昧に描くのはクノー一流でお見事。

フランス語は文字で書くとスペイン語によく似ているが、発音は全く違う。なのでスペイン語ができる我が家の次女は文字のフランス語はわりと読めるのだが、ヒヤリングは全くできない。クノーはそんなフランス語の表記法に疑問を持っていたそうで、この小説でも発音の通りの綴りで書いていたりするそうだ。フランス人でさえ一見意味がつかめないのではないだろうか。もちろん翻訳ではそんな部分は出ないので、そういう意味でのこの作家の特色は出せないのかもしれない。それでも十分楽しめた。中公文庫の別の翻訳も読みたいな。

ちなみにこの作品はルイ・マル監督によって映画化されていてすでに名作とされているが未見。各種配信サービスにもないようだ。ちょっと見たいかも。

あと大貫妙子がこの映画にインスパイアされた歌を書いていて原田知世と本人がそれぞれ歌っている。聴いてみたが、ザジこんなかわいいもんじゃないだろうと思った(笑)。