須賀敦子 ヴェネツィアの宿

須賀敦子全集第2巻の「ヴェネツィアの宿」の部分を読了。12作の連作エッセイで父との関係を中心に書いてある。
いつも通りの美しい文章と見事な構成力で素晴らしいが、父への複雑な想いからだろうか、普段語り手として一歩下がった視点から語ることの多いこの人としては、珍しく自分の心情を吐露した作品になっている。
 
まず冒頭に置かれた表題作「ヴェネツィアの宿」ではシンポジウムに参加するために訪れたヴェネツィアでのさりげない描写から父に愛人がいたことを知ったあの日へと思いが遡っていく。語り口の巧みさもさることながら、この人の作品としては珍しく父への憤りのようなものが文章の端々ににじみ出ている。その後の作品でも父への複雑な思いが通奏低音のように聴こえてきてとても陰影の深い作品だと思う。「大聖堂まで」「カティアの歩いた道」など一見父とは無関係に見える佳作を織り込みながら、ラストの「オリエント・エクスプレス」で父を看取るまで、いつもの須賀さんの作品らしい深い情趣と美しい文章に父への愛憎が織り込まれた見事な作品だと思う。
またこの作品ではこれまでの作品(「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」)で直接触れなかった夫ジュゼッペ・リッカ氏の死について、これまでになくはっきり触れてきている。次の「トリエステの坂道」でそこについて語るのだろうか。
 
いや~それにしても須賀さんの作品はどれを読んでも本当に素晴らしい。どうしたらこんな文章が書けようになるんだろう。

 

ディケンズ クリスマス・キャロル

言わずと知れたディケンズの超有名クリスマス・ストーリー。本屋さんで新訳の角川文庫を見かけて美しい装丁に惹かれて買った。映画やアニメで見た覚えがあるけど、実は読むのは初めて。

実業家で守銭奴スクルージは、クリスマスの夜、昔の共同経営者で故人のマーリーの亡霊の訪問を受ける。マーリーは自分が生前の行いの悪さであの世でひどい目にあっていて、スクルージもこのままならそうなる。そうなりたくないなら、これから毎晩三人の精霊が訪れるので彼らと行動を共にして自分の人生を考え直せと言われる。

まあとてもストレートな、子供でも分かる単純な勧善懲悪的な物語だ。自分の利益ばかり追求して人に嫌われたら幸せになんかなれっこないよという超当たり前のことが語られているわけで、クリスマスの炉端で子供たちに語って聞かせるにはもってこいのお話で、言ってみればそれ以上の何物でもないのだけど、うんまあでは今この世の中がそういう風になっているかというと全くそうでないところが悲しい。

現代はお金儲けがなによりも大切な時代だ。日本中にスクルージがあふれかえっている。投資家は単純に利益を上げる会社が好きなので、社会貢献など全くしない会社が業績が良い→株価が高いという構造が出来上がってしまった。一例として挙げればY電機などその最たるもので、何かのイベントのスポンサーになったりすることはほとんどなく、マスを考えた商売しかしないのでそこに当てはまらない顧客の利便も全くと言っていいほど考えていないが、見かけの業績はいいので株は高い。今はY電機に限らずこういう会社が多い。昔はこういう会社は投資家から嫌われていたものなのだが、今は素人が会社の経営方針など知らずに数字だけ見て投資するからこういう会社が儲かる。全くスクルージだ。誰かあのへんの会社の社長に精霊を連れてきてくれ。

そのスクルージだって、マーリーや甥のフレッドとか彼を何とかまともに戻してあげたいと思う人たちが何人かでもいたからこそ回心できたわけで、もはや腐った資本主義にはそういうつける薬すらないのかな。寂しいことだ。

メシア

NETFLIXのオリジナルドラマ。全10話。

2019年、シリアに突如現れた「神の子」を自称する男、アル・マシーフ。様々な奇跡を起こしながらイスラエル、米国に現れ一躍世界から注目を集める。CIA捜査官エヴァは彼を追う。米国テキサス州で竜巻から教会とその娘を救ったアル・マシーフだったが…

これは基本的には、現代にキリストのような人物が現れたらどうなるかをまじめに考察したドラマだ。もし今キリストが現れて奇跡を目の当たりに起こしたとしても、現代人はトリックだ、錯覚だと言って大半が信じないだろう。本人を詐欺師だと考える人も多いはずだ。このドラマでアル・マシーフが病気の子供と会い、病状が改善するが最後には死んでしまう描写があり、やっぱ奇跡なんて嘘じゃんと思ってしまうのだが、本家のキリストだっていろんな病気の人を癒したと福音書には書いてあると思うのだが、その患者がその後どうなったかまでは書いてない。すぐ死んじゃった人もいるかもしれないなあ、などとも思ってしまう。

そんなこんなでこのドラマでは、アル・マシーフが救世主なのか詐欺師なのかキチ〇イなのかを焦点に、イスラエルの諜報部員アヴィラム、シリアで出会った青年ジブリルやテキサスの牧師フェリックスとその娘レベッカなど多数の登場人物の目を通して描いていく。中東情勢やアメリカ社会の歪みまで盛り込んであって非常に興味深いドラマだ。

ラストはアメリカの陰謀でイスラエルの諜報部員もろとも葬られたかと思いきや、どっこい生きてて更なる奇跡を起こしたというところで幕切れだったのに、シーズン2は制作されないんだって。マジか。

現実の2020年とリンクしたうえでアル・マシーフがどう動くのか、そんなシーズン2を見たかった。

再読 スタニスワフ・レム 星からの帰還

ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの、有名な「ソラリス」とほぼ同時期に書かれた傑作。多分15年ぶりくらいに再読。

宇宙飛行士ハル・ブレッグはアルデバランへの10年の探査行から地球に帰還するが、地球上では127年が経過していた。右も左もわからない未来社会に放り出されたハルは自分がいなかった間に人類に何が起こったのかを徐々に知ることになるが…

100年前の人が突然現代にタイムスリップしてきたら、PCやスマホはもちろん、TVも自動車も全く理解できないだろうと思う。いや30年前の自分が今の世界に突然置かれても同じようにスマホを理解するのに時間がかかるだろうし、自動車のエンジンのかけ方すらわからないのではないだろうか?

この作品の冒頭ではそういう未来社会で戸惑う主人公が見事に描かれて、読者も主人公と一緒に未来社会で迷うことになる。そしてこの作品のキモは、この社会の人々が全員「ベトリゼーション」という処置を受けていて、殺人など暴力的な事ができなくなっていることである。

ここで描かれた未来社会はいわゆる「共産主義ユートピア」である。あらゆる社会的サービスはすべて無料になっていて、有料なのは一部の贅沢品や嗜好品に限られる。「共産主義ユートピア」では社会の活力がなくなり、文明的な発展のスピードが遅くなるとはよく言われるが、この作品でも現代人の代表である主人公がそんな社会と折り合いがつくのかがこの作品のテーマとなる。

そこでふと思ったのだが、先日読んだ広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由の答えがここにあるのではないか、という事だ。すなわち文明は発展すると必ず共産主義を選ばざるを得なくなると仮定するのだ。共産主義は過剰で無駄な生産をほとんどしないので、単一の惑星という限られたリソースで文明が生き残るためには結局選択せざるを得ない社会体制なのかも知れない。逆に言えば浪費が激しく、目先の利益にこだわって先が見えない資本主義の文明は確実に滅ぶのだと考えてもいいと思う。しかしそうやって共産主義が成功してしまうと、もはやその文明は宇宙に発展する意義を失う。せいぜい自分とこの太陽系を開発して終わりになるはずだ。外宇宙まで広がっていこうと考えないのではないだろうか。この「星からの帰還」という作品には人々がそう考える理由まで書いてあるように思える。

まあそんなこんなで、宇宙飛行士の同僚オラフはこの世界に見切りをつけて、また宇宙へ行く準備に入るのだが、主人公ハルは地球に残ることを選択する。共産主義が嫌いだったはずのレムが、このラストを選択するのは不思議に思える。

レムの作品の中で女性がちゃんと登場するのはこれと「ソラリス」だけである。この作品は三人の主要な女性キャラが登場、しかも主人公はそのうち二人と深い仲になってしまう。そういう意味でもレムとしては破格の作品かも(笑)

リュドミラ・ウリツカヤ ソーネチカ

ソビエト連邦時代を背景に、本の虫で容貌のぱっとしないソーネチカの一生を描いた作品。はっきり書いてはないがソーネチカは1920年前後の生まれのユダヤ系ロシア人だ。図書館に勤めていたある日、パリ帰りの反体制画家ロベルトと出会い結婚する。その後娘ターニャが生まれ、ソーネチカ一家は貧しいながらもつつましく生活する。やがて娘も成長したある日、成り行きで娘の友人ヤーシャを家に置くことになるが、そのヤーシャと夫がいい仲になってしまう。
 
うーん、なんと言ったらいいのだろう。自分の境遇にどんな時でも幸せを見出すと言うと「ポリアンナ」みたいなポジティブなものを連想するが、ソーネチカのはそんなポジティブなものとは全く違うように思う。結果的に幸福になったように思える(それも夫の葬式を個展に仕立て上げる策が当たった)し、その後実の娘とは疎遠になり、夫を寝取ったはずのヤーシャとは実の娘みたいに親しくするという、なんだかなな幕切れ。そして老いてまた本の虫に戻っているというのはなんとも寂しくないだろうか。それで良かったのかという疑念がどうしても拭えない。ひと昔前の封建的な時代なら日本でもこういう考え方の女性がいても不思議ではないとも思えるが...女性ならどう読むのだろうか。
 
AMAZONのレビューを見ると結構評価が高い。う~ん。なぜそうなるのだろうか。よくわからない。

スティーブン・ウェッブ 広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由

最近話題の中国SF「三体」でも取り上げられた、なぜ宇宙人は見つからないのかという問題、いわゆる「フェルミパラドックス」について考察した本。
もし宇宙に進んだ異星人がいた場合、それが光速を超えるようなオーバーテクノロジーを持たなくても数万年程度のタイムスケールで銀河中に植民し繫栄しているはずで、なぜそんな異星人と我々は接触しないのか、というのがこのパラドックスの命題である。本書はこれに対する50の意見について考察したもの。冗談のようなものから人類の発生要件に至るまで様々な意見について考察していく。まあ結論としては、宇宙で文明を築いているのは地球人だけじゃないのではないかというところに落ち着く。
私も以前から地球の生命の繁栄には月による潮汐などの影響が必要だと思われるし、他にも偶然の影響が大きく、したがって地球での生命の繁栄は実はかなりレアな事象なのではないかとは思っていたのだが、ここまで突きつけられるとうーんという感じ。
 
でも私は宇宙で我々だけが文明を持っているとは思わない。ここで検証されているのはあくまで地球と同じスタイルの生物による文明についてであり、地球とは全く違う進化を遂げた生物の文明だってありうると思う。地球と同じような偶然に見舞われなくても生命が文明までに発展する可能性はあるし、例えば19世紀にウィリアム・モリスが考えていたような共産主義ユートピアが実現した世界のように、文化的にかなり進んだ文明でも科学的な発展とつながらないということもありうる。
また、もし何万年も進んだ文明があるなら、それは普通に考えれば、人類と関わろうとしないだろうと思う。
書かれている科学の知識がやや古いので、現在は赤色矮星の惑星系が続々と発見されていて、銀河系にありうる惑星の数は飛躍的に増えていることも考えなくてはいけないと思う。
最初の方でダイソン球はこもった熱を赤外線として出しているはずと断じているのもおかしな話で、ダイソン球を作るような文明なら余熱の再利用もきっちりやるはず。無駄に放出したりするだろうか。
というわけでSFファン、宇宙ファンにはかなり刺激的な一冊。ぜひご一読を。

グエン・ニヤット・アイン 幼い頃に戻る切符をください

Facebookの読書グループで翻訳者の伊藤宏美さんにご紹介頂いたベトナムの作家グエン・ニヤット・アイン「幼い頃に戻る切符をください」他一編を読んだ。
表題作はタイトル通りの、中年になって社会的成功も手に入れた男性が、子供時代の仲良し4人組の思い出を綴ったノスタルジー溢れる素朴で可愛い作品。とても楽しく読めた。4人で大人たちの常識をひっくり返すような遊びを次々に仕掛けるのだが、子供らしく失敗するのが自分も似たようなことやった覚えのある人も多いのではないだろうか。読みながらなんとも懐かしい感覚を覚える。トゥンが引っ越すのが嫌で無言でチャーを三杯食べるくだりなど微笑ましくも子供時代あるあるな感じが親近感を感じた。
ただひとつ引っかかったのは時代設定が全く不明な点で、この作品2008年に書かれてて主人公は50歳手前ということは私たちと同じくらいの年輩なのだが、もしそうなら子供時代に携帯メールなんてあるわけないし、我々と同年輩が8歳の頃ならベトナムは戦争の真っ只中だったのではないだろうか。
併録されている「菊の花に別れを告げて」はベトナムの田舎を舞台に、もう少し年長の少年を主人公に据えて彼の淡い初恋を描くのだが、これもノスタルジックで微笑ましい作品と思いきや、ラストに怒涛の展開が。読後感は苦味が残る。作品の出来としてはこっちのほうが上だと思うが、これも叔母がガーさんを連れてくると言ってくる下りで電話で話しているかと思いきや面と向かって話してるという、どうやって話しているのかよくわからない描写があったのが気になった。
ベトナム文学というと「戦争の悲しみ」とか「ツバメ飛ぶ」という戦争がらみのものしか読んだことがなかったのだが、これはどちらも戦争とは無縁な、と言うか注意深く戦争に繋がる部分を消している感じの内容で、ベトナムの市井の人々の暮らしが活写されていて興味深い。ただ普段日本やフランスのひねた文学を読みつけた我々にはちょっとナイーブすぎるような気もする。
いや日本の作品が出版社の好みでひねりすぎなんだと思う。日本にも、この作品みたいな素直な小説を読みたいと思っている読者も、実は多いのじゃないだろうか。
 
ところで大同生命国際文化基金のHPにはアジア文学の翻訳が大量にUPされている。無料でダウンロードして読める。これは読まなきゃ。