須賀しのぶ 革命前夜

平成元年(1989年)、冷戦下の東ドイツドレスデン音楽大学に留学したピアニスト真山柊司。ヨーロッパでは東欧の社会主義支配が瓦解しだして、ドイツは東西ドイツ統一への時代の大きなうねりが起こり始めていた。そんな中で真山が見たものは...という感じの近代史と音楽を絡めて描いた骨太な作品。

いやこれはすごい。信じられないくらいよく書けてる小説だと思う。当時の東ドイツの閉塞感と、音楽を言葉で伝える表現がしつこくならずにうまく描き込まれている。意外と知らなかった当時の東側の事情や東欧諸国の解放までの空気感が伝わって見事な作品だと思う。

主人公が日本人なので今ひとつ緊迫感がないとか、当時の秘密警察はこんなもんじゃなかったという意見はあるだろうが、そこは主人公が留学生だからという留保はできるし、何より私たちは日本人なのだから、どう転んでも当事者ではないのだからこれでいいと思う。

ただこういう日本の作家の作品でいつも残念に思うのは、主人公に本当に個性がない事。いかに控えめでおとなしい日本人とは言っても、海外にまで留学に行くほどのピアニストならそれなりに個性的な人のはずだと思うんだけどな。

しかしその主人公の押しの弱さを補って余りある脇役のキャラの濃さがいい。奔放なヴィンツェル、生真面目なイェンツの二人の対照的な天才ヴァイオリニスト、謎めいた美人オルガン奏者クリスタ、北朝鮮からの「絶対に成功しなければならない」留学生ピアニスト、リ・ヨンチョル。さらに真山の父の友人一家の娘ニナなどみなやや平面的ではあるが個性的で印象が強い。真山は「水のようなピアノを弾く」キャラなのでこれら脇役を引き立てる役回りで、主人公というよりも語り手の位置付けとして見た方がいいのかもしれないとも言える。

前半はかなりじっくり描き込まれ、テンポが遅いと思う読者も多いようだが、私はそうは思わなかった。予備知識なしで読めば、このテンポだからこそ、読者も真山と一緒にだんだん秘密警察の陰湿さや怖さが身に染みてわかってくるのを感じられると思う。最後ちょっとミステリ調になっちゃったし、最終的な悪役と思った彼が決してそこまで悪いやつじゃなかったというのも、ちょっとありきたりな感じはあったが、一般の読者を引っ張るにはちょうどいいバランスだろう。

最後の方で真山が銃を持って襲ってきた暴漢を倒すシーンは余計だった。このシーンだけこの作品の世界感から見事に逸脱してしまった感が強い。

全体的には傑作と言っていいと思う。実は読もうか読むまいか逡巡があった作品なのだが、読んでよかった。