Star Trek : Strange New Worlds 第1話

さて5月5日から米国で配信開始になった「スタートレック ストレンジ・ニュー・ワールド」だが、依然として日本での配信・放送の目途が立っていない状況が続いている。要するに日本のファンは普通の方法では観ることができないのだが、どうしても観たいという人は一定数いるだろう。しかしネットで探せばいくつか抜け道というかやり方はあるようだ。私もそうやって観ることができた。

これ以降この記事では内容などについてネタバレを含むので、ネタバレが嫌な方はスルーお願いします。

第一話「Strange new Worlds」。邦題は直訳なら映画第5作と被るが「未知の世界」というところか。23世紀。「ディスカバリー」第2シーズンで自分の未来を見てしまったパイクは艦隊の仕事に恐怖を覚えてモンタナの山奥に籠っていたが、部下のナンバーワンがKiley279という惑星で行方不明になったと聞き、エンタープライズで救出に向かう。エンタープライスには科学士官スポックのほかに副官ラ・アン、操舵手オルテガ、医療主任ムベンガ、看護師チャペル、通信士ウフーラらが乗り組む。

Kiley279は21世紀初頭程度の文明を持つ惑星だが、二つの陣営が対立していた。そこに高度な文明を持つ連邦の宇宙船が現れ、彼らはクルーを拉致し、何らかの方法で23世紀の武器を手に入れてしまっていた。惑星に潜入してナンバーワンとそのクルーを救出したパイクは、艦隊の大原則を曲げてKiley279の敵対する勢力が交渉中の会議場に割って入り、人類が経験した第三次世界大戦を引いて平和を訴える。

Kiley279に平和をもたらしたエンタープライズはサミュエル・カークら新たなクルーを加えて更なる発見の旅へ出る、という話。

ディスカバリー」や「ピカード」が10話前後の1シーズンで一つのエピソードなのに比べ、これはきっちり1話完結。スタートレックの原点に戻ったような作品だ。あのカーンと同じノニエン・シンの名を持ち、どうやら優生人類の子孫らしいラ・アン、これまでと全く違う印象だがなにやらキュートなウフーラ、TOSではちょい役だったのに今回めっちゃ目立ってるチャペルなど登場人物たちも第一話からキャラが立っている。

第1話ラストでスタートレックのオープニングで使われるナレーション(「Space, the final frontier...」で始まるアレの後半「to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no man has gone before」)をパイクのセリフにしたのもシビれる。さあこれ日本語版でどう訳すのか。日本語版のオープニングのままだとセリフにならないと思うのだが。

というわけでこの先も楽しみ。でも英語字幕で観るのはなかなか辛いなあ。

スタートレック・ピカード

スタートレックピカード」はあのピカード艦長のその後を描くシリーズ。先日第2シーズンの配信が終了した。第1シーズンは人口生命体をめぐる話で、話自体も地味だったし、なによりこれまでと違う倫理観の欠如した連邦の態度に疑問があり、正直不満だった。

今回の第2シーズンではQが登場、ピカードらは歴史が改変された世界に飛ばされてしまう。この歴史改変を是正するためにボーグ・クィーンの力を借りて2024年の地球を訪れたピカードたちだったが…というお話。

正直かなり面白かったのだが、全10話のTVシリーズにするには内容的にちょっと無理があったかな。FBIに拘束されるなどどう考えても不要なシーンが多かったし、同性愛的な要素をわざわざ入れる必要があったのだろうか。もっと刈り込んで2時間の映画でよかったと思う。それでもいろいろと「そう来たか!」と思わせる展開があって楽しかった。

さてこのシリーズで一番問題になるのは、ラスト近くでピカードの仲間の一人、アグネス・ジュラティ博士がボーグ・クィーンと融合してしまう。そしてラストでは、冒頭で侵略に来たと思われたボーグが実はほかの巨大な脅威に対してアグネスの意図で連邦に協力を求めていたことが明かされる所だと思うのだが、そうするとこれまでのシリーズで再三描かれてきたボーグの行動にはすべてアグネスの意図が働いていたと考えなければいけなくなる。TNG「浮遊機械都市ボーグ」でのピカードの同化が意外とあっさり解けたこと、映画「ファースト・コンタクト」で地球に落ちたボーグがENT「覚醒する恐怖」でも意外と簡単に撃退されたことは以前から疑問だったのだが、アグネスがそうしむけていたと考えれば納得がいくし、そのほかの、セブンがヴォイジャーに派遣されたことなどなにもかもがアグネスの意図が働いてのことだったと考えるととても興味深い。ボーグ関係のエピソードを全部見直してみたくなる。

厳密に考えると、それではあのパラレルワールド専制的な銀河帝国に囚われていたボーグ・クィーンは一体どこから来たのか(歴史の改変による分岐はアグネスとクィーンの融合以降に起こっているはず)など矛盾もあるが、まあそれはそれ笑笑。

それにしてもパトリック・スチュワート御歳81歳だそうで流石に老けた。第3シーズンで完結らしいが無事に演じて欲しいものだ。

ところでスタートレック関係は現在いろいろと問題が起きている。米国では「パラマウント+」という配信サービスが始まって、すべてのスタートレック関係の映像はここで配信しているらしいのだが、これに伴ってこれまで米国以外の国でNetflixで配信していたものがすべて配信停止になってしまった。このため現在日本では最新の第4シーズンはもとより従前の3シーズンを含めた「ディスカバリー」と5月に始まった「Strange New Worlds」が配信されていない。スタートレックの新作では、現在はAmazon Primeで配信されていたこの「ピカード」とアニメシリーズ「ローワー・デッキ」だけが観れる状態だ。特に「Strange New Worlds」は期待大のぜひ見たい作品。何とか早く観れるようにしてほしいものだ。

雪国 Snow Country

先日NHK-BSで放送された、川端康成の名作小説「雪国」を高橋一生奈緒主演でドラマ化した映像作品。

「雪国」は川端の作品としては「伊豆の踊子」に次ぐような回数で、何度となく映画やドラマで映像化されているのだが、どれも全く観たことがなかった。「伊豆の踊子」が吉永小百合の決定版的な映画があるのに比べると「雪国」は過去の映像作品になかなか決定版的な評価のものがないように思う。それは「雪国」という作品が「伊豆の踊子」に比べると文学作品としてかなり理解しにくいものであるからだろうとは簡単に想像できる。

実はこのドラマを観終わってさっそく「雪国」の文庫本を引っ張り出して読んでみたのだが、この小説、特に若い人などはドラマの印象がなければぱっと理解できないような部分も多いように思う。いやどんなに読んでも、駒子と葉子の関係性がよくわからない。わからなくて当然だ。川端が書いてないのだから。だが映像化ではそうはいかない。台詞などで説明的に述べる必要はないが、この二人の関係性をはっきり設定していないと映像作品として成り立たないのだ。

今回は葉子を森田望智さんという女優さんが演じている。この人はNETFLIXの「全裸監督」で話題になった人なのだが、素朴な感じの幼な顔の女優さんなので、小説の、どちらかというとシャープな印象のある葉子のイメージには程遠いと(個人的には)思う。そのせいだろうか、このドラマでは、どちらかというと駒子が葉子に対して強い立場であるように見えてしまう。

「雪国」という作品で語り手の島村は3度ほどこの雪国の町を訪れ、回想されるだけの一度目は初夏、冒頭部分からの二回目は冬、最後は晩秋なのだが、このドラマではすべて島村の心象風景としての雪景色の中で進められる。これは思い切ったアイディアだと思うが物語の静謐さと響きあっていい味が出ている。高橋一生は無為徒食で本質的に空虚な島村を見事に演じていた。奈緒は確か「半分、青い」に出てたと思うのだが、あまり印象のなかった女優さん。しかし今回はちょっとエキセントリックなところもある駒子を魅力的に演じていた。

ラストのほう、繭蔵が火事になったところで、まるで謎解きのように駒子の過去が語られるシーンがある。これは小説「雪国」としてみたら正直言って全くの蛇足だが、映像作品としては分かりやすいかもしれない。でもこれだけ説明的なシーンを加えても駒子が島村に「いい女」だと言われてキレるなどディティールの謎には迫れない。

そしてラストで天の川が島村の心に落ちてくる、あの印象的なシーンが映像化されていないのが残念。

冒頭の有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」が列車の中でないのも気になったのだが、冒頭で「こっきょう」と読んでラストで同じセリフを「くにざかい」と読んだ意図はなんだろう。

ボクらはみんな大人になれなかった

2021年劇場及びNetflixにて公開された邦画。原作は「燃え殻」というペンネームの作家による同名の小説。森義仁監督、森山未來伊藤沙莉主演。

TV番組で使うフリップやCGを制作する会社に勤めている40代の男性・佐藤。ある日facebookの「友達かも」に昔の恋人かおりの名前を見つけて、佐藤の思いは時を遡り始める。

最近の邦画はかなりいいかげんな恋愛映画が多いが、これはどうだろうと興味半分で観たのだが、うーん、なんだか中途半端にリアルなのに中途半端に意味不明な作品だと思う。

まず、この映画は冒頭に2021年コロナ禍の現在が置かれ、そこから時代を遡っていく構成になっている。場面ごとに何年とテロップで出るのだが、正直そこまでする必要があっただろうか。現在と、90年代のかおりとの日々だけでよかったのではないだろうかと思ってしまう。かおりと別れて10年ほど後に、結婚を考えながら結局は別れた恵という女性を大島優子が演じていて結構いい味出しているのだが、そもそもこのエピソード必要だっただろうか。

かおりがとても独特な美意識を持っているキャラなのに、当時流行していた小沢健二のファン(それも「神」と崇めるほど)というのもなんか適当な設定に思えるし、かおりという女性の私生活をはじめとするアイデンティティが、ふたりが「会うことがなくなって」別れた理由も含めて全く描かれないのも不満が残る。もっともこれは映画的には描かなくてもよかったことだとは思うのだが、サイドストーリーの一つでしかない恵のエピソードが結構詳細に描かれているのと対比するとメインの話であるはずのかおりのエピソードがちょっと弱いように思えてしまう。

まあそれでも主演の二人の演技力は見事。21歳の青年から40代半ばの中年を見事に演じきった森山は素晴らしいし、かおりは見ようによってはムカつくような子なんだけど、そんな子だけに好きになってしまうとヤバいというのはよくあることで、その辺を伊藤はうまく演じていたなあと思う。脇を固める東出昌大などもすごくいい演技をしているし、90年代の空気感もよく出ていた。多くの人々が抱えているであろう、今の自分に対する「こうなるはずじゃなかった」という思いは映像から伝わってくるしある種のノスタルジーと悔恨を観る者に与えて共感を誘うと思うのだが、それだけに時間を遡る構成が必要以上にひねりを入れすぎた感があって気になった。

レイモン・クノー 地下鉄のザジ

レイモン・クノーの代表作「地下鉄のザジ」を、白水社レイモン・クノー・コレクションの久保昭博による翻訳版にて読了。

ザジという10歳くらい(?)の女の子がパリに住む叔父のガブリエルに預かられることになってやってくる。ザジはパリで地下鉄に乗ることを楽しみにしてやってきたのだがあいにく地下鉄はストライキで運休中。ザジのパリでの一日の冒険が始まる。ガブリエルはオカマバーでダンサーとして働いているし、いずれもひと癖あるガブリエルの隣人たち、変態なのか警官なのかわからない、名前をいくつも持った謎の男など様々な人物が登場してザジの冒険を彩るが、さてザジは地下鉄に乗るという目的を果たせるのか。

…というわけでなかなかドタバタの一見キュートなお話なのだが、クノーらしく謎や仕掛けもいろいろ施してあって非常に多面的で興味深い作品だ。いかにも1960年代のパリらしいとも言えるし、全然現代の話でも違和感ないようにも思える登場人物たちの、言行はリアルでありながらアイデンティティを曖昧に描くのはクノー一流でお見事。

フランス語は文字で書くとスペイン語によく似ているが、発音は全く違う。なのでスペイン語ができる我が家の次女は文字のフランス語はわりと読めるのだが、ヒヤリングは全くできない。クノーはそんなフランス語の表記法に疑問を持っていたそうで、この小説でも発音の通りの綴りで書いていたりするそうだ。フランス人でさえ一見意味がつかめないのではないだろうか。もちろん翻訳ではそんな部分は出ないので、そういう意味でのこの作家の特色は出せないのかもしれない。それでも十分楽しめた。中公文庫の別の翻訳も読みたいな。

ちなみにこの作品はルイ・マル監督によって映画化されていてすでに名作とされているが未見。各種配信サービスにもないようだ。ちょっと見たいかも。

あと大貫妙子がこの映画にインスパイアされた歌を書いていて原田知世と本人がそれぞれ歌っている。聴いてみたが、ザジこんなかわいいもんじゃないだろうと思った(笑)。

アナトール・フランス 聖女クララの泉

白水社アナトール・フランス小説集」の第8巻。この作家お得意の、宗教にまつわる短編を集めた作品集。

冒頭に置かれた「神父アドネ・ドニ」で、ここに収められた短編が「聖女クララの泉」のほとりで神父アドネ・ドニによって語られたものを書き留めたものであることが語られ、そこから10個の物語が語られる。この作家の作品は代表作である「舞姫タイス」などにもみられるようにキリスト教の矛盾に切り込んだものが多いのだが、ここでも「聖サティール」や「ルシフェル」などでその片鱗が見える。その最たるものが中編ほどの長さを持つ「人間悲劇」という作品だ。

フラ・ジョバンニという口下手な修道士はその無垢なるがゆえに世間からは愚者とみなされていたが、本人は神に愛されて満ち足りていた。彼を誘惑しようとしたサタンでさえその無垢さゆえに諦めるほどだった。しかしある日天使が現れ、フラ・ジョバンニに赤熱の炭火を与え、これで彼の口下手を癒したうえ、神の教えを広めよと命じる。雄弁になったジョバンニはある町で神の教えを説き、町の掟に背いたとされ死刑判決を受けてしまう。ジョバンニを救い出そうとやってきたのは彼を誘惑できなかったサタンであった、という物語である。

この物語の途中の問答など、教会で説教に出てきそうな至極まともな話なのだが、それがどんどんキリスト教の考え方からずれて行き、キリスト教への疑義が深まって行くところが巧みだ。

それでいて、逆にキリスト教を信じたが故の奇跡を描いた(と思しき)「担保」のような作品や、もある。作品集全体としてこれはどう読んだらいいのだろう。この作家は反カトリックという文脈で語られることが多いが、そういう単純なものではなく、この作家自身キリスト教を愛しながらも矛盾を感じて疑問を抱えていて、それをそのまま作品にしたのではないだろうか。これは19世紀末に書かれた作品集ではあるが、近・現代社会は、ユヴァル・ノア・ハラリが言うように、どうしても宗教では乗り越えられない問題と矛盾を抱えていることの現れなのだろうか、などと思った。

中村真一郎 秋

中村真一郎の「四季」四部作の第3作。私は第1作「四季」を2008年に、「夏」を2014年に読んでいて、今回ようやく第3作を読むに至ったわけだ。前2作の記憶も曖昧ななか読み進めると、前作では語り手である「私」の、自殺同然に亡くなった妻のことに触れながら、その詳細が全く語られなかったのを思い出したのだが、今回は「M女」と表記されるその妻との関係を中心に、「夏」で描かれた「A嬢」との物語に先立つ日々を回想していく。

で、まあ正直な話とても読みにくい。プルーストに心酔していた中村はこの作品にも「意識の流れ」を大幅に取り入れて、語り手の思惟は実際の時間の流れとは全く無関係に揺れ動き、語り手の現在時間である70年代からM女と暮らした20年前や、それから連想されたもっと昔や最近の過去など様々な時代へシームレスにつながって行く。おまけに人名がほとんどアルファベット(「D」とか「S」とか「K」とか)になっているので非常に読みにくく、またのこの記号名のために小説全体に対して感情移入を阻まれているような気もする。

で、前作同様非常に奔放な性についてかなりのページを割いて描かれたこの作品は、そのあまりにもフリーな感覚に正直ついていけない。読んでいて『この人頭おかしいんじゃない』と思うことも多々。そんなに人生にとってセックスは大事(おおごと)なのだろうか。語り手は60歳が目前というから今の私と同じくらいの年。70年代の60歳は今の私よりも老人だったと思うのだが、そんな老人がいまだにセックスにこだわっているなんて正直気持ち悪い。そもそも作中のDのような芸能人とかでもない普通の作家にこの小説みたいな奔放な性行動が可能なわけがない。小説の技法としての面白さはあるが、そこで描かれているテーマがセックスばかりというのは同じ初老の男性としてあまりにも情けないと思う。

そうそう、この作品どう読まれているのかと思ってネットでググったら何やら手放しで褒めているブログがあってへえそんな風に読む人もいるんだなあと思っていたら例の、私にはまったく同意できない理由で「死の島」をクソミソに貶していたサイトだった。うーんこの人とは意見が会いませんねえ…

で、最後の作品「冬」が残っているわけで、これは死を真正面から見据えて、前3作を総括した作品なのだそうだ。うーん面白いのかなあ。