スタニスワフ・レム 捜査

レムコレクション第2期の最新刊は久山宏一訳「捜査」と柴田文乃訳「浴槽から発見された手記」のカップリング。

「捜査」はハヤカワ文庫から出ていた深見弾氏による翻訳、「浴槽」は深見弾氏の翻訳による集英社版ハードカヴァーと村手義治氏の翻訳によるサンリオ文庫版があったのだがいずれも廃刊になって久しく、とくに「浴槽」は一時は中古価格の相場が二万円超にもなったほどの貴重本だった。そういう意味で今回普通に読めるようになったのは大変歓迎すべきことである。…のだが、今前半の「捜査」を読み終わったところで愕然としている。というのは、正直言って大変翻訳が悪いのだ。日本語の小説になっていない。旧訳のほうがこの新訳よりもはるかに読みやすい。

最近は様々な出版社が過去の名作の新訳を出すパターンが増えている。新訳になる理由はいくつかあるが、旧訳が古くて現代の感覚では読みにくくなったために、現代の言葉で読みやすくするという意図の場合と、村上春樹氏の翻訳によるチャンドラーのように過去の翻訳よりも正確に翻訳したいとか、このシリーズの「ソラリス」や「インヴィンシブル」のように過去の翻訳に欠落部分があるとか重訳で正確性に欠けるなどの理由で新訳に置き換わる場合がある。好きかどうかは別としてそれらには一定の存在価値を認めざるを得ない。

ところがこの「捜査」にはそんな価値がない。はっきり言ってひどい翻訳だと言わざるを得ない。旧訳と比較してもこちらの方が良いと言えるポイントが全くない。「ソラリス」のように欠落個所を補ったというわけでもない。脚注ばかり増えているがほとんどは言わずもがなの内容だし、特に会話文が全く一般的に話されるような日本語になっていないと思う。

例えば第2章で主人公グレゴリーが上司シェパードの家を訪ねるシーン。それまでは普通に上司が部下に対して話す感じでしゃべっていたシェパードが、「お入りください」とか「お座りください」とか突然やたらに丁寧語でしゃべる。上司なのだから普通「入りたまえ」「座りなさい」などでいいだろう。丁寧な言い方をするにしても「お入りなさい」「お座りなさい」のほうが自然だ。ちなみに深見訳では「ついてきなさい」「座りたまえ」となっている。 この他にも会話文で普通ならそんな風に言わないだろうというおかしな言い回しが頻発してとても読みにくい。

ラスト直前のグレゴリーとシェパードの会話はこんな風だ。

「私たちは未来への一定の指針を定めなくてはならない。直近の未来だ。明朝、ロンドン警視庁で君を待っている」

「前回と同じく、十時に?」-彼の声のうちには隠れた喜びが響いていた。

「ええ、君は来るかい?」-不承不承、明るい口調で言い足した。

この翻訳では意味が掴めない。グレゴリーの声になぜ「喜び」が混じるのか、なぜシェパードが「不承不承」なのか全くわからない。

深見訳は 「今後のためにはっきりした指針をたてなきゃならん。明朝、本庁で待っている」

「このあいだのように十時ごろですか?」グレゴリイの声には楽しんでいるようなニュアンスが隠されていた。

「そうだ。出てくれるな?」シェパードはなにげなくつけくわえた。

はるかにこっちの方が明快で理解しやすい。

個人的には「捜査」は「ソラリス」を補完する重要な作品だと思っているのだが、深見弾氏の翻訳が現版権保持者(大野典宏)の意向で、大野自身が改竄したものしか出版を許さないようで、既に「泰平ヨン」シリーズが改竄され見る影もなくなった無残な姿で再刊されファンの顰蹙を買ったのは記憶に新しい。そういう事もありまともに再刊される望みが薄いという事情がある。とはいえ、こんなひどい翻訳を読まされる新しい読者はかわいそうだ。 これなら深見訳の改竄版のほうがマシだったかもしれない。

ちなみにこの翻訳者は「大失敗」も手掛けている。あれもとても読みにくかった覚えがあるんだけど、あの読みにくさはレムが書いた作品そのもののせいではなかったのかもしれないという疑いさえ浮かぶ。

おかげで読むのにすごく時間がかかった。後半の「浴槽」は柴田文乃さんだから大丈夫だろうけど、こんなのでは国書刊行会の編集方針すら疑ってしまうなあ...

佐藤亜紀 スウィングしなけりゃ意味がない

第二次大戦下のドイツ、ハンブルク。青年エディは敵性音楽であるジャズに魅せられ、仲間を集めて闇パーティを開催したりしていたのだが、徐々に戦況は悪化、エディの周辺もどんどんきな臭くなっていく。ゲシュタポに捕まって収容所の地獄を見たりしながらも軍需産業の工場を経営している父を隠れ蓑に海賊版のレコードを制作・販売したりして比較的自由な青春を送っていたのだが、大規模な空襲がハンブルグを襲い、日常が崩壊する。

佐藤亜紀は以前ロシア革命下で無軌道な青春を送る青年を描いた「ミノタウロス」を読んだ。あれもなかなかすごい小説だったのだが、これはあれをさらに大きく上回る傑作だ。主要な登場人物があっさり退場したりもする作品だが、痛みや残酷な現実から目を逸らさず、しかしクールに描き出す作者の手腕は見事の一言。 戦時下のドイツは日本とよく似た世相で、登場人物を日本名にして「ゲシュタポ」を「特高」に言い換えれば全然日本の話でも通りそう(当時の日本にこれだけの反骨精神のあった若者たちがいたかどうかは別として)。これはほとんどがフィクションなのだが、当時のドイツにもこういう青春があったのだろうかと感銘を受けた。

ただどうしても読んでで、どこか「日本人が日本語で書いてるなあ」と思ってしまう部分がある。この感覚は何なのだろう。

ルーシャス・シェパード タボリンの鱗

前回読んだ「竜のグリオールに絵を描いた男」の続編でシリーズの中編2作を収録。

表題作「タボリンの鱗」はタボリンという古銭商の男がたまたま手に入れたグリオールの鱗を触っているうちに一緒にいた娼婦の女性シルヴィアともども謎の未開の場所に飛ばされてしまう。どうやらそこはグリオールがまだ幼生だった時代らしく、その何もない未開の土地でサバイバル生活を余儀なくされる。やがて別にこの時代に飛ばされてきたグループと出会い、虐待されていた少女ピオニーを救い出すが…という物語。

最後の方でいきなり現代に連れ戻されるのがよくわからないが全体には非常に面白かった。 ラストではタボリンとシルヴィアが10年後くらいに再会するのだが、離れていたシルヴィアにはタボリンと、彼と親子のようにして一緒に暮らしているピオニーが全く理解できない。この冷やっこさがこの作家の持ち味だと思う。

もう一作の「スカル」はグリオールの死が確かなものになった後テマラグアという国(「グアテマラ」のアナグラムだろう)に売り飛ばされたグリオールの頭蓋骨。その国で、幼いころ自分を犯そうとした変質者を殺害したと噂されるヤバい少女ヤーラに恋をしたアメリカ人の男スノウだったが、ある日彼女は突然消える。アメリカに戻って普通の暮らしをしていたスノウはヤーラの噂を知ってテマラグアへ。ところがテマラグアは過激な独裁主義の政党PVOが影響力を強めていた。ある町でヤーラと再会を果たすが、PVOの実質的なボスであるヘフェに軟禁されてしまう。どうやらヘフェはグリオールの頭蓋骨から生まれた竜の末裔のようだ...

なんかヒッピーっぽい感じと中南米あたりのギャングや独裁者に支配されたヤバい社会情勢がミックスした、苦み走った作品。作者がグアテマラに住んでいたころの経験が生かされた作品だという事で、竜の子孫を寓意的に使った政治的な色合いが強い作品だ。最後にスノウはヤーラを連れてアメリカへ向かうが、それはひとつの地獄から別の地獄へ向かうかのようだ。

この連作、どれも普通ありがちなスッキリした決着がないのが良い。現実の生活でのエピソードも一応の決着がついてもそれで万事決着がつくものではない。サバイバル生活や恐怖の下での生活は終わっても、二人の関係は終わってないとかね。そういう所がとてもリアル。

あと一作、長編「美しき血」も楽しみ。

ルーシャス・シェパード 竜のグリオールに絵を描いた男

その昔魔術師によって封印された体長1マイルにも達する竜のグリオール。その体は歴史の流れの中で土地の一部となり、その周辺にはいくつかの集落もでき多数の人間が暮らすようになった。しかし彼は麻痺した状態で生きていて、しばしばその邪悪な意図で人々を操るのだった。 というプロットの連作短編が4作収録された短篇集。

SFという要素はない。ジャンルから言えばファンタジーなのかな?作品の前提となる設定が竜ではあるけど、いずれも人間が主題の作品なのでファンタジーはどうもという人にも面白いと思う。

表題作「竜のグリオールに絵を描いた男」は何十年もかけてグリオールの体に絵を描くことで殺そうとする画家の話。画家は作業の途中である既婚女性と懇意になるが、彼女の夫に追いつめられ殺害してしまう。夫の遺体は誰も探せない竜の体の危険な部分に遺棄され、画家が罪に問われることはなかったが、女性は去ってしまう。ずっと後、老いた画家は竜の瞳の前である少女と出会う。なかなか詩的な美しい作品。でも後の作品とはちょっと矛盾してる気もする。

「鱗狩人の美しき娘」は強姦されそうになってつい殺してしまった男の家族の復讐から逃れて竜の中で暮らすことになった娘の話。竜の体に住み着いたおかしな人々と共同生活をしながら竜の体の中を探索する日々を過ごす羽目になる。竜の中で10年も暮らすとかすごいな。最後の方は竜を出て人間社会に戻るのだが、竜のエキスパートみたいになってるのがリアルだ。

「始祖の石」は竜を殺そうとして新興宗教みたいなものを主宰する男が、信者でこの男におもちゃにされていた娘の父親に殺された殺人事件の犯人を弁護することになった弁護士の話。父親はこの殺しはグリオールの意図だと主張する。弁護士は父親の無罪を証明すべく娘の許を訪ねるが…謎解きはちょっと無理があるような気もするが、これが一番面白かったかな。前作のヒロインがちょっとだけ登場する。

「嘘つきの館」は竜が変身した女と暮らすことになった逃亡殺人犯の男の話。主人公もとんでもない奴だし、竜の女も思考回路が人間と全く違うところが面白い。まあいろいろと冷やっこい話。

どれもとても面白かった。 連作としては最初の作品と後の作品の辻褄が合わないけど、まあそんなことはどうでも良いかな。 続き2冊あるらしい。すぐ読みたい。

それにしてもこれ竹書房文庫っていうのから出てるんだけど、この文庫すごく面白そうなのが多い。値段が高いのがアレだけど、ちょっと注目していこう。

水谷周 現代アラブ混迷史

イスラエルハマスの戦闘はどんどん泥沼化していくばかり。毎日パレスチナ情勢のニュース見ては「いい加減にしろよイスラエル」と憤るのだが、イスラエルとアラブの対立の歴史についてちゃんと知っておきたいなと思い古本でこの本を見つけて読んでみた。

だが、これはイスラムについての本でイスラエルとの関係についてはほとんど書いてない。 この本を読んでわかったことはイスラム教というのがもともと政治にも発言力が強い、というか政教一体の宗教であるということ、そのため政教分離という民主主義では当然のことができず、昔の教王(カリフ)制の影響なのか独裁に拒否感がないということだ。

近代イスラム国家の歴史は独裁者の歴史だ。 イスラム各国の独裁者が紹介されているが、まるで独裁者の見本市だ。そうなったのももとをただせば第1次大戦後のオスマン・トルコの解体とカリフ制の廃止、そして英国の二枚舌外交によるイスラエルの建国といった様々な歴史的な失策があったからだと言える(もっともそれを言うならさらにずっと遡ってローマ帝国一神教キリスト教を認めてしまったことが今に続く対立の根底にあるとも言える。キリスト教が欧州世界を飲み込む一大勢力にならなければイスラム教自体発生しなかったと思えるからである)。

この本ではイスラムユダヤの対立についてではなく、イスラムという文化をどう捉えるべきなのか、イスラム各国に民主主義は根付くのか、という事を論じてある。まあ新書なので内容は薄い。書かれた当時と今では社会情勢も全く違う。このころ(2011年ごろ)はまだISもなかったわけだし。

というわけで、イスラム各国の独裁者列伝としては面白かったが他はあまり参考にならなかったかな。

ネイサン・ローウェル 大航宙時代-星海への旅立ち-

企業惑星ネリスに住み大学進学を控えた青年イシュメールだったが二人暮らしの母がある日突然事故死してしまう。母の扶養家族として住んでいたネリスを出なければいけなくなり、仕方なく船員として貨物宇宙船ロイス・マッケンドリック号に乗ることになる。

これってスペースオペラって言っていいのだろうか?普通SFと言うと、ほとんどの場合戦争をやってるかファーストコンタクトとかで宇宙生物の生態や宇宙人社会の驚異について語るものだが、この作品にはそういうものは全く出てこない。地球人が多くの星系に移民した時代の貿易船を舞台に、主人公が船員として成長し、個人貿易の才を発揮し出すという何とも平和な話だ。 個人貿易というのは各船員に許可された私物の重量の範囲で寄港地で買付したものを先の寄港地で販売して儲けるというもので、要は宇宙を舞台にした転売屋のお話。

しかしよく考えると、最初の星から次の星まで一ヶ月くらいで到着するわけで、それなら今欧米に船便で物を輸出するのと大差ない。相互の特産品の交易も盛んなはず。そこに個人輸入で持ちこんでも、関税や輸送料がかからない程度のメリットしかない。そういえば関税に関することは作中では説明されていない。普通なら寄港地ごとに細かい関税の規則や持ち込み禁止の品物のリストとかがありそうなものだが、そういったものはなく、個人貿易については船員の私物として目こぼしされているとしか考えられない。個人の自由にできる重量枠(10kg)が、船の巨大なキャパシティから考えれば驚くほど小さいのはそういう事なのだろう。

でも「ロイス・マッケンドリック商業組合」という組織として活動するのなら関税を逃れられないようにも思う。全体にそんなにうまくいくわけないやん。というのが正直な感想かな(笑)。まあそれでも斬新な切り口のSF小説ではある。

それにしてもなによこの邦題。全く内容と違うではないか。ちなみに原題は「Quarter Share」「四分の一人前」の意味だ(作中では「四半株」と訳されている)。ついでにカヴァー画も全く内容を反映していない。 早川書房最近こういうの多くないか?

ちなみに米国では続編が「Harf Share」「Full Shere」…と何作も出てるらしいが邦訳はストップしたまま。うーん続き、読まなくてもいいかなあ…

塩野七生 ローマ人への20の質問

BOOKOFFで100円だったので何の気なしに買った新書本。新書というと結構いい加減な本も多いのだが、これは「ローマ人の物語」という大著が有名な塩野七生氏がローマ帝国について対話形式でわかりやすく解説した本で、めっちゃ面白かった。

ローマ人の物語」は全く読んでないし、私のローマ時代についての知識といえば「ベン・ハー」や「スパルタカス」「グラディエーター」といった映画やドラマ「ROME」を見たくらいのものだったのだが、これを読んだらローマ帝国というのが理想の社会に近いことに驚かされた。

ローマ帝国というと周辺の国を次々に侵略し、敵国の人々を奴隷として使役しコロッセオで残酷なショーを楽しんだ野蛮な人々というイメージが強い。それは決して間違ってはいないのだが、実はローマ帝国は野蛮なだけな社会ではないのだ。

2000年も前の社会で女性の権利が、参政権こそなかったものの財産権を認められていたとか、武力で併合した敵国の文化を尊重したとか、驚くことばかりだ。ローマ帝国は併合した国の神を自らの神殿に加えていった。キリスト教以前のローマ帝国の時代の宗教は柔軟な多神教で、だれが何を信じようと自由だったのだ。だからこの時代には宗教紛争などなかった。このころ世界にあった一神教ユダヤ教というローカル宗教だけだったが、その後キリスト教イスラム教が派生した。これらはいずれも一神教で、自分たちの神以外を信仰することを許さない。一神教が人類に広まってしまったことが現代の人類の不幸の元凶になったのだと言えなくもない。もしローマ帝国が続いていて一神教を受け入れなかったら、今世界を揺るがす宗教対立もなかったかもしれない。人類はなぜ2000年前よりも不寛容になってしまったのだろう。

現代人としてとても悲しく情けなくなってしまう。ローマ時代の寛容で自由な社会こそが人類の到達すべき理想社会だったのかもしれない。「ローマ人の物語」読みたくなった。